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このブログは,末日聖徒イエス・キリスト教会国際機関誌『リアホナ』に掲載された記事を共通の話題として,読者の皆さんと編集者・ライターが,また読者の皆さん同士が交流する広場です。毎月の『リアホナ』に掲載されるかなりの記事を題材にブログを展開してまいりますので,皆さんのご意見,ご感想,ちょっとしたコメントなどを,お気軽にコメント欄に書き込んでくださいますよう。皆様のご参加を心よりお待ちいたしております!


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2011年6月23日 (木)

傾聴ボランティア体験記

2011年7月号ローカルページに,小林久子姉妹の手記を掲載しました。誌面が限られるため抜粋版となりましたが,この手記を受け取ったとき,編集者として,できれば読者の皆様に全文を読んでいただきたいと思いました。現場を目の当たりにした方にしか書けない臨場感あふれる筆致で,被災地の現実がいきいきと描き出されています。
ネットというメディアに,長文がなじまないことは重々承知しています。しかし,誌面のスペースに制約がないこともネットの大きな利点です。リアホナ誌面で抜粋版を読まれて共感をおぼえられた方は,こちらの全長版もご一読くださると幸いです。
なお,本誌にも記しましたが,小林姉妹はこのボランティア活動を通じて,一切,写真撮影をしていません。添えられた写真はすべて別取材で撮影されたイメージで,本文と直接の関係はありません。


傾聴ボランティアに参加して~私が見聞きし、体験したこと~
             
藤沢ステーク湘南ワード  小林久子


それでもあなたは行きますか 2011年4月7日(木)

 その時、私は新宿で23時59分発仙台行きの高速バスの到着を待っていた。
スーツケースにもたれて道路わきで立っていると、突然両足が上下し、地面が弾むような感覚がおきた。一瞬地震かなと思ったが、誰も慌てるふうもない。いつもするように何かぶらさがっているものはないかと周りを見渡すと、歩道のフェンス横にある標識のポールが大きく鞭打っている。やはり地震らしかった。
 少ししてバスが到着し、私は荷物を預けて乗り込んだ。トイレのない4列の夜行バスだ。少しでも体を休めておきたい。さっそくアイマスクをつけて眠ろうとしたが、携帯の話し声が耳につく。なぜ真夜中に多くの人が携帯で話しているのか、私はまだ何も気づいていなかった。
 ふと「震度6強」という声が漏れ聞こえた。緊迫した空気。東日本大震災後の最大の余震だ。メールが入った。「大丈夫ですか。今宮城で大きな地震がありました。」隣りで座っていた若い女性は実家が岩手だという。余震がおさまりかけたので、今夜ようやく実家に向かうところだったのだ。青ざめた表情で携帯の地震情報にかじりついている。すでに実家とは連絡が取れないらしい。そんな状況でも、彼女は親切にも私に地震の情報を教えてくれた。
携帯には夫からの着信記録があった。夫は私の安全と健康を心配してか、すぐに首を縦には振らなかった。それでも、「苦しんでいる人を見ながら見ないふりはできない。小林家を代表して行ってくるから!」の言葉に、いつものように黙って送り出してくれたのだった。
 この時になってはじめて、被災地へ災害ボランティアに行くということの重み、危険性が心に迫ってきた。皆が避難しようとしている所に、私はこれから敢えて飛び込んで行こうとしているのだ。バスの出発は遅れており、まだ引き返す猶予はある。私は自分の心に問うた。「それでもあなたは行きますか?」
「行きます!」私は自分に返した。「何が起ころうと引き受ける。その中で最善を尽くそう。」被災地に行くとはこういう意味なのだ。短く祈った。気が引き締まる。少し遅れてバスは出発した。「途中通行止め等の状況によっては、一般道路を使いますのでご了承ください。」アナウンスの後も、携帯の薄青い明かりが暗くなった車内をしばらく照らしていた。


このことはリーダーに言わないでください

4月8日(金)宮城県石巻市 根岸集会所へ 物資運搬、炊き出し、傾聴ボランティア
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 バスは2度サービスエリアに立ち寄り、6時過ぎには無事仙台に到着した。
 仙台は昨夜の地震の影響で停電になっていて、駅前は閑散としていた。駅周辺を見るかぎり、建物の大きな損壊はみあたらない。駅に着いたら教会に電話をする予定だったが、携帯がつながらない。震災の時と同じだ。それでも重いスーツケースを押しながらなんとかタクシーをつかまえると、30分後には教会災害対策本部がある上杉ワードに到着した。

Kamisugistrage
 上杉ワードにはボランティアの兄弟たちが寝泊りしていた。私は姉妹たちが集合する8時半ごろまで奥の一室で待機するよう言われ、持参したパンで朝食を済ませて皆の到着を待った。教会の各部屋はかなりの量の支援物資が所狭しと積み上げられ、仕分けられていた。善意の宝庫だ。
 この日、私たちは二手に分かれて行動した。私は石巻市の根岸集会場へ行くよう割り当てを受けた。80人分のカレーの炊き出しをし、時間があれば傾聴ボランティアを行なう。途中で新鮮な野菜を買って、生野菜も提供したいとの計画だった。物資を積み込んで2台の車に分乗すると、私たちは9時ごろ教会を出発した。
 停電の影響で信号は止まり、道路は大渋滞だった。新鮮な野菜を届けたいとの思いもむなしく、すべての店舗は散乱した商品の後片づけや安全確認のために閉店していた。やむを得ない。東へ向かうにつれ、次第に瓦が崩れ落ち、ガラスが砕け散り、傾いてしまった家々、ブルーシートで覆われた屋根が増えてくる。

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 石巻市に入ると、様相は一変した。道路わきに積み上げられたがれきが延々と続く。砂埃が舞い立っているのか、閉め切った車中にいても咳が出る。海岸線に出ると、何度もテレビで見た光景が飛び込んできた。少しの骨格を残しただけの空洞の連続は、そこをものすごい破壊力を持った津波がぶちぬいていったことを示していた。数え切れない車がありえない場所に、ありえない角度でおさまり、巨大な石油タンクが横たわっている。異臭が鼻をつく。流されなかった家では片づけが行なわれていて、使い物にならなくなった廃棄物が道のわきにうず高く積まれている。車幅ぎりぎりのところまでがれきが迫り、そこをくねくねと進むと根岸集会所が見えてきた。

 すぐ近くにも小学校の避難所があるのだが、ここには80名近くの人が避難していた。ライフラインが復旧しておらず、60歳くらいの女性が全体のまとめ役をしていた。物資を運びこもうとすると、彼女は開口一番、「生野菜はありますか。」と尋ねた。長澤兄弟はこの日なんとしても生野菜を届けたいと言っていた。水やパン、カップめんは自衛隊からも届けられるようになっていたが、人々の体は野菜を渇望していたのだ。
 彼女は落胆の表情で肩を落とした。
 避難所の中には数名しかいなかった。日中は多くの人が自宅に戻って片づけをしているのだ。
炊き出しの前に少しの時間があったので、私たちは中に入らせてもらうことにした。「一人はこちらに来てください。難しいおばあさんが一人いますので、話し相手になってあげてください。」世話役の女性に手招きされ、私は奥の部屋に入った。
その女性はみゆきさん(仮名)と言った。68歳で白髪、年齢以上に見える。足を投げ出してぼうっと座っている。手を取って挨拶をし、「お体の具合はいかがですか。」と尋ねると、みゆきさんは「木綿のパンツがほしいけれど、化繊のものしかない。もっとゆったりとしたものを履きたい。」と食い込んだ下着をちらっと見せた。そういえば私の母も、ゆったりしたのがいい、大きめがいいといつも言っている。
 私は脈を取り、血圧を測って「大丈夫ですよ」と告げた。「実は、毎朝のおにぎりが固くてね・・」彼女はぽつりぽつり自分の病気について話し出した。「本当は私、固いものを食べてはいけないんです。」彼女は食道静脈瘤、胆石症があり、最近ではおにぎりを食べると胃が痛くなり、下痢をするらしい。「今度おかゆのレトルトを持ってきましょうか。あるかどうか分かりませんがパンツも探してきましょうか。」こう提案すると、みゆきさんは首を振った。「このことはリーダーに言わないで下さい。ここにいられなくなってしまいます。何も持ってこないでください。わかってしまいますから。我慢できますから。ここではみんなと同じものを食べて、同じように生活しなければいけないんです。贅沢はだめなんです。聞いてくれただけで満足です。」
 みゆきさんは廊下で転んだことも皆に隠していた。狭い避難所に何十人もの毛布や衣類があるため、お年寄りはつまずきやすい。トイレだって不便だし、日中じっとしているものだから筋力も低下する一方だ。役割もないので、昼間はじっと皆の帰りを待っているだけだ。「自分は何の役にも立っていないから。」彼女は何度もそう繰り返した。せめて一脚の椅子があれば、股関節の手術をしている彼女の立ち座りはどんなに楽だろうか。その椅子もいらないと言う。これではすぐに歩けなくなり、寝たきりになってしまう。
 今の私にできることは、このほんのひと時の間、彼女に心の安らぎを感じてもらうだけだった。全身のマッサージをし、一緒に歩く練習をし、この方に幸いがあるようにと祈った。
 この避難所というコミュニティには規律があり、他の人が立ち入りできない部分も多々ある。他のボランティアにも相談したが、何もしない方が賢明との意見だった。世話役をしている人も、訓練されてなったわけでもなく、体力の限界を感じながら荷を負って奔走している同じ被災者なのだ。元気いっぱいに振舞っている彼女の方こそ、心のケアが必要なのではないかと思った。

200人分のカレーに添えられたコールスロー

 その後、私たちは炊き出しの準備にかかった。80人分だと聞いていたが、まとめ役の人は「200人分のつもりだったんです。」と憮然と答えた。避難所で寝泊りしていない人達も食べに来られるらしいのだ。
 そんなやり取りをしている時、女性たちの視線を感じて私は振り返った。「早くやるならやってよ」という雰囲気だ。避難所での食事は、朝と夕の2食だけだ。停電のため夕食は4時から始まる。明るいうちに早く片付けたいのに、疲れて帰って来ても何も進んでいないではないかという不満からだろう。
 私たちは彼女たちにも手伝いをお願いした。大鍋に山盛りの小玉ねぎの皮むきだ。手際よく下準備しながら、私たちに言い聞かせるように、「ちゃっちゃっとやらなきゃね。」「とろとろしてちゃあ、だめなんだよ。」の言葉が飛び交う。「は~い。もっとちゃっちゃっとしなくっちゃあ。うわっ、早い!」と返すと、「そうだよ、こんな風にやるんだよ。どんどんやって!」と来る。こんな形で苛立ちやストレスを笑って受け止める。
「ある野菜だけでもいいから、コールスローを作ってあげたい。」西野姉妹たちはそのように願い、準備に取り掛かった。私は200人分のカレーを時間までに必ず完成させようと思った。
 地元の男性が火をおこしてくれた。がれきの木材はたくさんあるものだから、火はぼうぼうだ。もう一つはガスボンベを使っての調理。河本兄弟と二人で、3つの大鍋いっぱいの具だくさんカレーを超特急で作った。途中から皆が他の用でいなくなったために、私一人で火の番をしながらの炊き出しとなったが、若い女性の責任やキャンプでの経験がこんな形で生かされることに、不思議な思いがした。
 ご飯は地元の女性たちが炊いてくれた。おこげがいっぱいの固めのご飯にカレーをかけると、西野姉妹がコールスローを横に添えてくれた。野菜が添えられていることで食の豊かさや温かみが増す。何はともあれ、求められる時間内に、求められているものを準備できてよかった。


助けの必要な方をご存知ですか

4月9日(土)長町ワード、上杉ワード
 
 先に宅急便で送った私の荷物は、誤って救援物資として仕分けられていた。1日待って伝票を確認してもらい、思い出せる範囲で水と食糧を返していただいたものの、他にも箱にしのばせておいたいくつかのものが見つからない。絵本、紙風船、高齢者のために作った運動のしおり、口の体操の資料、健康チェック表、お年寄りが好きな歌の歌集。スーツケースにはしゃぼん玉、ちょっとした薬やハンドクリーム、お尻拭き、ゴム手袋、前日に借りた紙芝居も幾つか入れておいた。
 使わなくてもそのまま持ち帰ってもいい。でも、「あれを持ってきておけば良かった」と後悔することのないように、行く直前まであれこれ考えて、入れておいたのだ。
 私は今、老人ホームで看護師をしている。老人看護の経験は浅いが、看護師になって30年以上になる。子育てで長く仕事を離れていたが、これまで私の目も手も心もずっと看護師だったように思う。大病をして最も苦しんでいた時も、看護を受けながら、どうしたらもっと良い看護師になれるかを私は学んできた。
 テレビで避難所の報道があるたびに、お年寄りが健康上抱えている問題、近い将来予想される状況を考えると胸が痛んだ。避難所の固い床、狭いスペースでほとんど寝るか座ったままの生活、誰とも話さない毎日、炭水化物に偏った食事、少ない水分摂取や粉塵の影響、行き届かない口腔衛生と体の保清、屋外にある和式の仮設トイレ、すでに抱えている病気の放置、役割や生きがい・家族や住み慣れた環境を喪失したことの影響等々。
 今老人看護に従事しており、昨年は介護予防運動指導員の資格も取得した。子供も巣立った。若くはないし、体力もあまりないが、私はまだまだ健康だ。職場の看護師仲間も喜んで勤務を交替し、送り出してくれる。教会で災害対策本部も設置された。私は行かなければならない、という思いに突き動かされた。少しでもお年寄りの傍らにいて、心のケアができればと心から願っての参加だった。
 幸いにも、資料も絵本も見つかった。月曜日から私はどこに行くにもこれらを詰め込んだ重い手提げを持ち歩くことにした。

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 私たちは上杉ワードと長町ワードに分かれて総大会の衛星放送を視聴した。私は長町ワードだ。大きな余震があったばかりだし、自宅でも視聴できるためか、出席した人はわずかだった。教会の玄関をくぐると、正面の壁を走る大きな亀裂が目に飛び込んできた。トイレのガラスも割れ、2階の一部は立ち入り禁止になっていた。私たちは礼拝堂に点在して座り、指導者が語る言葉を聞いた。
 今日出発する前に、私たちはまとめ役である戸浪姉妹から新しく訪問できる人を開拓するようにとの要請を受けていた。私はこれにこたえようと決意していた。しかし、ぱらぱらと僅かな人の出席。午前中の放送で帰られる人もいるだろう。
 午前の放送を終え、2階の台所へ皆と昼食に向かう途中、一人の女性が急いで帰ろうとしているのを見かけた。駆け寄り、声をかけると、彼女は立ち止まってくれた。彼女の名前は谷川姉妹(仮名)。短く自己紹介し合ってから、私は彼女に「助けの必要な方をご存知ですか」と単刀直入に尋ねた。「います。」すぐに返事が返って来たことに、私は正直驚いた。
 谷川姉妹は親友である岡田家族(仮名)の名前を挙げ、連絡先を教えてくれた。また教会をお休みされている会員で、被災されながらも懸命に被災者の世話をしている姉妹をぜひ訪問してほしいと、住所と電話番号を教えてくれた。その隣人で家を流された藤田さんにも助けが必要らしい。難しいかもしれないけれども、できれば避難指定区域に住むパートメンバー安達姉妹の所へも訪問してほしいとのことだった。谷川姉妹の連絡先も教えてもらって別れた時には、もう午後の衛星放送が始まろうとしていた。
 午後の部会も人は少なかった。私はここにいる人皆が、そのまますぐに帰ってしまわないようにと願った。
 大会終了後私たちは全員に声をかけ、残っているほとんどすべての人にアロマオイルでのハンドマッサージをしながら傾聴させてもらうことができた。
 私はまだハンドマッサージのやり方を教わっていなかった。だから、隣りでやっているのを横目で見ながらの自己流からのスタートだ。YSAの兄弟は将来の進路について悩みを打ち明けてきた。震災後の重い空気の中で、些細な悩みは言い出せない状況があったのかもしれない。部屋中で笑顔と深刻な話が交じり合った。岡田兄弟は午後の部会に出席されていた。私はまとめ役でもあり専門職である戸浪姉妹に谷川姉妹からの情報を伝え、岡田兄弟に詳細を傾聴してもらうようお願いした。

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 夕方、私たちは電車で上杉ワードに戻った。「何名か礼拝堂に残っていますから、ぜひ声をかけてさしあげてください。」と促され、私たちは礼拝堂をのぞいた。10人くらいの人が大会の余韻に浸り、静かに話していた。
 どこに行こうかと見渡した時、一番奥で話している60歳くらいの女性にしようとの思いが湧いた。近寄り、「少しでも楽になりますので、手のマッサージをさせてくださいますか。」と声をかけると、彼女は快く応じてくれた。気さくで明るいその女性は、「ああ、いいにおい。一瞬でも安らぐわねえ。」と言い、被災して住めなくなった自宅が半壊か全壊かという話を先ほどまでしていたことを打ち明けてくれた。
 話を聞くうちに、この女性が岡田兄弟の奥さん、谷川姉妹の親友の岡田姉妹であることが分かった時には、本当に驚いた。今日は驚いてばかりだ。助けの必要な人の所へ所へと、主が導いて下さっている。召しでもないこのボランティアの働きをも、主が先頭に立っておられることを私は確信し、喜びに満たされた。「今日ご主人にもお会いしました。谷川姉妹にも会って、お話を聞きました。」と言うと、岡田姉妹はとても驚かれていた。
 「今度はこの人にもやってあげてちょうだい。家が全部流されたのよ。」岡田姉妹は先ほどまで一緒に話していた女性にもマッサージを勧めてくれた。その姉妹は、家が全壊してやり直せる見込みがないため、山形に引越しするのだと語った。一見、楽しいおばちゃん同士の会話に見えたが、実は大きな被害を受けた者同士にしか交わせない深刻な話し合いだったことが分かり、いかに自分が盲目で御霊のささやきを必要としていることかと痛感した。
 訪問する所を開拓するようにとのチャレンジは、心構え、祈りとなって、このような形で答えを受けることができた。「伝道と同じだ」と思った。私たちは求めれば与えられ、たたけば開けてもらえ、捜せば見いだすことができる。一人見出せば、その人がより助けの必要な人を紹介してくれる!


私は大丈夫ですから

4月10日(日)長町ワード

 昨日に引き続き、私は長町ワードで衛星放送を視聴し、その前後に傾聴ボランティアを行うという割り当てを受けた。
 私は夫婦宣教師アパートに4人で宿泊していた。反省会を終えてアパートに帰ってくると21時を過ぎることが多かった。毎晩、食事や片づけを終えると皆で聖典を読み、聖句について学んだり、その日経験したことを遅くまで話し合った。私は一日の記録を済ませると、翌日の目標を立てる。私の胸には自分のことを顧みずに働いているビショップやRS会長さんたちのマッサージをさせていただきたいとの思いが膨らんでいた。
 長町ワードに着くと、昨日お会いした気さくな兄弟に「ビショップはどの方ですか。」と尋ねた。彼は明るく答えた。「ビショップは私です。昨日はありがとうございました。いやあ、楽になりましたよ。」気づかなかった。なんて飾らない、謙遜な方だろう。私は大沢ビショップに「どなたにマッサージをして差し上げればよいか、教えて下さいませんか。」と尋ねた。ビショップは何人かの名前をあげてくれた。彼は午前の部会が終わると、午後の部会までの1時間、その場でアロマオイルでのハンドマッサージをすることを快諾して下さった。
 その1時間はまるでシオンだった。紹介してもらった人にマッサージを申し出ると、その人は手を振り、「私は大丈夫ですから、この人にしてあげてください。」ともっと大変な思いをしている人を連れて来る。
そして、その人は「いえいえ、この人から先にして下さい。」とまた別の人を連れてくるのだ。数名のボランティア仲間がフル回転で進めても時間は足らず、ビショップが紹介してくれた人にたどり着くのはなかなかのことだった。
 職場で長をされている保育士さんもいた。あの日、彼女は怯える子供たちを死に物狂いで避難させ、今も行方不明となった子供達の家族を捜索していると語った。そして、昨日一人の遺体が見つかったという報告を聞き、彼女はこれから安置所に行くのだと言う。黒い服装の理由はそれだったのだ。言葉に詰まった。
 午後の部会が終わった後も、多くの人達が私たちを囲んだ。互いに語れないことも、第三者がいることで話すことができる。私の方がまだ苦しみが小さいからと、悲しみや不安を心にしまい込んでいる人がどれほど多いことか。

米を分かち合った女性

 まだ新会員の半澤姉妹は、地震直後の経験をマッサージの間中ずっと話してくれた。3月11日、午後2時46分、震度6弱の地震の後、大津波が町を襲った。彼女の夫は10トンの大型タンクローリーで危険物を運ぶ仕事をしていた。彼は地震のため高速道路の上の橋げたから転がり落ちそうになったところを、どうにか命拾いして真夜中帰ってきた。夫の勤める会社は津波被害があり、壊滅状態となって、多くの人が被災した。夫は彼女に言った。「明日、会社の人に水とおにぎりを持っていってあげたい。」「もちろん、いいよ。」彼女は答え、翌日から台所を懐中電灯で照らしながら土鍋で8合分の米を炊き、おにぎりを作って会社に持って行かせたという。夫は泥だらけになり2時間の道のりを歩いた。毎日毎日、二人でたくさんのおにぎりを握ったが、お米はあっという間になくなり、数日後には2合に満たない米しか残っていない現実に向き合うことになった。
 半澤姉妹は米を減らすまいと、土鍋に焦げ付いたご飯を水でふやかしてお粥にして食べた。夫にはそんなことはできないと泣きたい気持ちで祈ると、両親からメールが届いた。過去に両親とのいさかいがあり、絶対両親をゆるせない心が消えないでいた半澤姉妹だった。いさかいの末、家を出て1年半が過ぎていた。「来なくていい。」かたくなな彼女はそう返信した。実は両親の家も津波被害を受けており、大変な時期を過ごしていた。
 その1週間後に突然、住所をようやく捜しあてた両親が訪ねてきて、米やお菓子などの食料品を持って来た。彼女はやむなく両親を家に招き入れ、久しぶりに話をした。その時に、彼女の心に奇跡が起こった。心に渦巻いていた憎しみや恨みが嘘のように消えていったのだ。両親に感謝し、愚かだった自分を悔い、「父母を敬う」ことができずにいた苦しみから贖われたことを知ったと言う。
 後日、半澤姉妹は夫と共に、夫の実家に向かった。津波で流された車の代わりに義兄の車を貸してもらえることになり、夫の両親は「これくらいしかできないけれど持って行きなさい」と60㎏の米を持たせてくれた。帰り道、彼女は夫に恐る恐る尋ねた。夫は教会員ではなかった。「今日もらったお米の半分を、教会に持って行っちゃあだめ?」夫は少し考えて答えた。「いいよ、あなたに任せるよ。」そう言って、教会まで米を運んでくれたと言う。
 半澤姉妹は被災者でありながら惜しまず米を分かち合った。それで、その何百倍もの祝福を得た。彼女は証をまとめたものをコピーして皆に配っていた。私も一部いただき、皆で回し読んだ。
 
避難所の実態

4月11日(月)宮城県石巻市 
住吉中学校体育館(221名収容)・・ヘアカットボランティアと同行し傾聴ボランティア
湊中学校 (55名収容)
法山寺幼稚園 ・・傾聴ボランティア

 私たちは現役の美容師さん数名と共に住吉中学校体育館に向かった。同じ黄色いモルモンヘルピングハンズのジャケットを着ていると、連帯感や親近感がわく。美容師さんは体育館のステージの上で場所を設けて、被災者の髪をカットし、私たちは二人一組になって、仕切りのない体育館をねり歩いた。
 傾聴の手がかりとして「手のマッサージさせてもらってもいいですか。」と声をかけると、「手だけなの?腰が痛いんだけど。」「足もいいの?」の返事が返ってくる。津波から逃れる時に受けた傷、がれきの撤去や後片付けのため慣れない力仕事で痛めた腰や足、疲労や運動不足、睡眠不足でがちがちになった首や肩。ほとんどの人が体の不調を抱えていた。
「どうですか。体が少し楽になりますよ。」横になっている人にも声をかけると、何人かは「それじゃあ、お願いしようかしら。」と少し辺りをはばかりながら腕をめくる。真向かいに座って、手を拭いてからオイルを延ばす。そして、心をこめて丁寧にマッサージをしていると、たいていは地震や津波から逃れた時の話が彼らの口から出てくる。公平感があるように手だけのマッサージにしようとの方針だが、私は足や腰、肩などに強いニーズを感じた時には、なるべく彼らの望みに応えるようにした。肩こりの人には肩こり体操を一緒にする。腰痛の人には腰痛体操をする。そうすると、周りで見ている人も、体操をやり始めるのだった。私は個々にあった運動のニーズが非常に高いことを感じてきた。運動は心を活気づけ、病気や寝たきりを予防し、痛みを和らげる効果がある。避難所生活の中に、運動プログラムが日課として取り入れられていけばいいなと感じた。
 仕切りのない体育館は全体が見渡せる。前の方では70歳を越えると思われる車椅子の女性がぽつんと座っていた。彼女の前には子供たちが学校で使う勉強机が置かれていた。立ち上がろうとしないように、転倒しないための防御だろうか。彼女のもとに行くと、プンと尿臭がした。床ずれができていないだろうか。
 マッサージをしている間、彼女は私が着ているジャケットの文字を見て、「イエス・キリストの教会なの?イエス・キリストはなぜ十字架にかかったの?」と尋ねた。「イエス・キリストは私たちのために十字架にかけられました。」と答えるとまた、「どうしてイエス・キリストは私たちのために十字架にかけられたの?」「イエス・キリストは十字架にかけられて、どうして死んでしまったの?」と繰り返した。おそらくは認知症である彼女に説明したとしても、理解には限度があるだろう。また、私たちは傾聴ボランティアとして入ることを認可されたので、宣教はご法度だ。でも、この女性はなぜイエスさまが十字架にかけられて苦しまれたのかと、車椅子の上でずっと問いかけている。私は彼女の言葉で主が苦しまれたことを思い出し、神聖な気持ちになった。
 26歳の若い女性がいた。「マッサージはいらないから、話を聞いてください。」と声をかけられ、私は彼女の悩みに耳を傾けた。彼女は心が病んでいて、心療内科の治療を受けていると告げた。「天井を見てください。」と彼女は言った。屋根の中央が何メートルにもわたって大きくひび割れており、余震のたびに恐怖におびえる毎日が続いているらしい。「認知症の母親は好き勝手なことをしてすぐどこかに行くので、いつも見張っていないといけない。大嫌いだ。本当は顔も見たくない。母の笑っている顔を見ると吐き気がする。仕事もしたいけれど、母親を見ていないといけないので、何もできない。」と、先にマッサージを受けて満足げな顔をしている母親に背を向けた。
 そうは言っても、彼女は母親を見捨てることなどできず、現実から逃避することはできない。また、毛布を隔てた隣りには、右にも左にも男性がいる。若い女性にとってどれほど不安で苦痛なことだろう。彼女は以前に父親や男性から虐待を受けた経験があり、男性と一緒にいるだけで怖くて仕方がないと言う。彼女は声を低くして、実は夜になるとお酒を飲んで外から帰ってくる人がいて、その人は毎晩大声で怒鳴るので皆がびくびくしているのだと話してくれた。ホームレスの人、気の強いおばさんたちもいて、非常な気兼ねや気遣いで疲れきっていると彼女はこぼした。
 15時半を過ぎると、後片付けをしていた人達が戻ってくる。避難されている人の生活やプライバシーを考えて、通常ボランティアの活動は夕方までだ。それから朝までの密室の空間でどのような生活が行なわれているかは、私たちには知り得ないことだ。ただ、普段なら一緒にいるはずのない人達と、仕切りのない一つのフロアで生活することには、どれほどの苦痛が伴うことだろう。
 この避難所には、日本看護協会から看護師が派遣されていた。私は挨拶し、どのような活動をしているのかを尋ねた。彼らは、主に床ずれのケアや医療処置の必要な人のケアをしていると言った。1チーム3人で3日ごとに入れ替わるので、なかなか心のケアまではまわらないジレンマがあると打ち明けてくれた。彼らが大事な部分を引き受けてくれているので、私達はこのような活動ができる。ありがたいと思った。

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衝撃の湊中学校  

 湊中学校までの道のりは、これまでのそれとは全く違った。ほとんど人に出会わない。一面のがれきと濡れた地面。灰色の景色。死を匂わせる光景。
 湊中学校に到着した時、まさかここは避難所ではないだろうと思った。中学校の入り口には緊急車両が1,2台。入り口付近にはたったの二人。ぬかるんだ地面、大きくひび割れた校舎、真正面に見える中庭には数え切れない車が突っ込まれていた。とにかく人の気配がない。
 私たちは傾聴ボランティアとして入れるかどうかを打診するためにここにやってきた。でも、はたしてこの建物に避難している人などいるのだろうか。私は本部の人に交渉する役を買って出て、美香姉妹が私に同行してくれることになった。
 車から降りると、まず辺り一面に充満している悪臭にくらくらっとなった。目に飛び込んできたのは、1階の天井からむき出しでぶら下がっているコード類。建物の内外を走る激しいひび割れは、今にも崩れ落ちるのではないかとの恐怖を募らせた。2階くらいまで水没したのだろう、運び込まれた汚泥がずっと跡をひきずっている。私は様々な死骸や汚物をほうふつさせる腐乱臭に吐き気を催し、胃が締め付けられるのを感じた。2階の階段で履物を脱ぐと、私たちは4階まで昇った。臭いは校舎にこもり、むしろ増しているように感じられた。私はたまらずポケットからマスクを取り出した。
 4階に本部があると聞いていたが、本部室には誰も人はいなかった。さらに奥に進むと、ようやく「北海道職員」の腕章をつけた一人の男性に会うことができた。派遣されてやってきたその人は、「私にはよく分かりません。」と前置きしてから、「傾聴ボランティアはまだ必要でないと思います。」と答えた。確かに、それ以前の状態であるのが、はっきりと見て取れる。調理室と書かれた教室では、ボランティアと思われる女性が3人立っていた。彼女たちにも動きがなく、全体に時間が止まっている感覚だ。
 日赤からのボランティア2名を見かけた時には、ほっとした。彼らは市販の風邪薬などを手渡し、北海道職員の人に衛生面での注意をしていた。「最近ようやく清掃ボランティアが入りましたから。」とのことだったが、帰京後新聞で読んだところによると、トイレは非常に不衛生で、ダンボールにおむつをのせて、その上に用を足している現状が続いているらしい。仮設トイレはもちろんない。このままでは感染症の集団発生は必至だ。
 私たちは「不足している物資はありますか」と質問を変えた。最近ようやく給水車が来たが、また間隔が空いてしまうのではないか不安だ、との答えだった。他の避難所と比べて圧倒的に物資が不足しており、すべてがほとんど手付かずにいる状況に、とりあえず私たちは物資を届けることを約束した。
 私は被災者がどこに避難されているのか、気づかなかった。「ここじゃない?ここしかないわよね。」美香姉妹は私たちが何度かその前を行き戻りした大きな部屋を指さした。言われてみれば中が薄明るく、そのような気もする。しかし、前後のドアはきっちりと閉ざされ、人の気配はまったくない。動きも物音もない。ここは海岸線に近い非常に危険な区域だ。今にも崩壊しそうな建物、外気の臭いがそのまま充満するこの劣悪な環境の中で数十名の人が暮らしていることは、あまりにも衝撃的な事実だった。
 私たちが車に戻ると、待っていた仲間たちは明るく「どうだった?」と尋ねた。時間がかかったために、ボランティアの交渉が成立したと期待していたらしい。私は「傾聴ボランティアなんていう段階ではない。みんな一度見てきて。」と答えた。この現状を見ないで帰るわけにはいかなかった。仲間はぬかるんだ地面に降りて、めいめい偵察に出かけた。
 車がゆっくり出発すると、重い空気が垂れ込めて、皆黙りこんでしまった。ここで避難されている人たちはいったいどんな思いで生活されているのだろう。体中を覆った臭いと五感に焼きついた印象が私の心を暗くさせた。とても人が住めると思えないこの場所で、被災されて体も心も傷ついた人が暮らしていることを思うと、いたたまれなかった。
 私たちはさらに次の場所へ急いだ。がれきをかき分けて車が通れるだけの道を作るのに、どれほどの時間と労力を要したことだろう。車の高さ以上のがれきはきっちりと角があり、まだ詰まれて真新しいように思われた。がれきのクランクを曲がると、四方はまたがれきの山。積まれたがれきの隙間は思ったより空間があり、目を懲らすと何かを発見しそうで、迷路のような道を間違いなく前進してくれる長澤兄弟の運転を本当にありがたいと思った。無事にここを抜け出したい、皆の共通した思いだった。


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津波警報から逃れる

 壊滅状態になった所からだいぶ登ったところに、法山寺幼稚園があった。約束の予定時間をはるかにオーバーしていたが、「遅くなっても構いませんのでお願いします。」ということで、この避難所におじゃますることになった。
 ちょうど炊き出しを終えた頃のようだった。避難所にはストーブがたかれていて暖かく、和やかな雰囲気がみなぎっていた。
手前の方から順に進んでいくと、眉を剃った若い奥さんに「私にもやってちょうだい。」と奥の方から声をかけられた。自分の家は流されたけれど、昼間は他の人のために泥かきやがれきを取り除くのを手伝っているという。しゃがれた声が疲労のピークを物語っていた。
 隣りには彼女のたくましいご主人が食事をしていて、煙草をふかしながら陽気な会話をしていた。彼はその時のことを話し出した。3月11日、地震の後、津波警報が流れると、多くの人が車に乗ってこの高台を目指した。彼も車に乗り込んだが、渋滞がひどかったため他の道を迂回してどうにかここに辿り着くことができた。津波はこの高台のぎりぎりまで押し寄せ、渋滞に巻き込まれた車はほとんど津波に飲み込まれてしまったという。彼はそれまで潜水夫の仕事をしていて、海の底に潜っては、船にひっかかった網を直したりしていた。彼は津波から逃れることができた。でも目の前で溺れていく人達を見て、自らの危険を顧みず水の中に入り、10人の人を助けた、と話してくれた。
 私は彼にもハンドマッサージを勧めた。なかなか首を縦に振らなかったが、ついには私の前に座ると、手を差し出した。私は黙ってオイルを塗り、そのたくましい手に感謝をしながらマッサージを行なった。彼も黙っていた。ふと目を上げると、それは穏やかで優しげな表情でくつろいでいる様子が目に入った。目には光るものがあり、私はそれを正視してはいけないと感じた。
私はハンドマッサージをしながら、その人がどのようにしてほしいのかが徐々に分かるようになっていた。こちらが押すと相手も押し返す。どの位の力で、どの角度で、どこをどうしてほしいかを、手と手を通して会話するのだ。その分、沈黙の時間が増えるようになっていく。私の思いが確かに届いているのも感じた。
 その時、また地震速報が鳴った。
 身構えると、数秒してガタガタと地震が来た。ラジオから震源地は東北地方太平洋沖で、福島で震度6が観測されたとの速報が流れた。ここ石巻沿岸にも津波警報が出され、津波到着は18時20分とのこと。この高台の下は、全域が津波で壊滅状態になった場所だ。私たちは津波到着時間を過ぎてから帰路に着くことに決め、続けてハンドマッサージをしながら傾聴をしていた。
 18時20分、津波が到着した時間を確認して、私たちは避難所を後にした。あのたくましいご主人と奥さんはとても若いのに正座をして両手をつき、頭を床につけて何度も「ありがとうございました」を繰り返した。先に訪問した住吉中学校でもそうだった。どの人も正座をして、深々と頭を下げて御礼を言われた。手を合わせようとする人もいた。小さな親切にこれほどの誠意と礼節をもって応えて下さる。何という人達だろう。許されるなら毎日でも来て、どんな仕事でもいいから手伝わせていただきたいと心から願った。

 車が出発した時にはあたりはもう真っ暗で、雨が降っていた。高台から降りると、皆の緊張が高まっていくのを感じた。わずかな光が時に見え隠れするが、周囲はほとんど真っ暗で、車も通っていない。私たちはこれから、来る時に通ってきたあのがれきの道を通り抜けなければならなかった。ふと怖くなった。もし先ほどの地震でがれきが崩れて通行止めになっていたり、津波ががれきを押し流していたら、私たちは帰れなくなるかもしれない。暗闇の道なき道は危険で、万一迷ってしまったり、道中で地震や津波に遭おうものなら二次災害は免れない。
 がれきの道を抜け、地震で損壊して重量制限のある橋を渡る時、運転していた長澤兄弟が「水かさが増していますね。」と言った。橋から川を見下ろすと、大震災で潮位が増した水面はずいぶん上がり、今日の小さな津波の影響もあるのだろう、水は橋の近くまで迫っていた。その黒の濃淡に不気味さを感じた。
 橋を渡ると「逃げ切った」という安堵感が包み、車内でも会話が増えてきた。ラジオは何箇所かのがけ崩れや通行止めを伝えていた。20時30分、ようやく上杉ワードに到着。私達はもっと早く帰ってこなければならない。あの時石巻市には避難勧告が出ていたことを、私たちは後から聞いた。
 教会に戻ると分かち合いの時間があった。その後、私たちはアパートに戻り、カップめんの食事を済ませると、反省や感想を話し合った。12時前にまとめ役の戸浪姉妹から電話が入った。明日は全員で湊小学校、6時50分集合。


マスクをつけていなさい

4月12日(火)宮城県石巻市 湊小学校 2~4階  手作りクッキーを持参、傾聴ボランティア
 
 今日は全員で湊小学校を訪問した。昨日の湊中学校への物資の移送は、美香姉妹と兄弟たちに割り当てられた。私は正直、ほっとした。割り当てられればもちろん行ったが、ほっとしてしまった自分を情けなく思った。このことは、神奈川に戻ってからも私を苦しめた。自分が『良きサマリヤ人のたとえ』のレビ人のような気がしてならなかった。
 湊小学校のリーダーの男性は避難所全体をよく把握し、管理されており、私たちボランティアを快く受け入れて下さった。彼は心のケアの必要性を認識されていて、できれば全員に傾聴ボランティアをしてほしいとのことで、親切に案内と紹介をして下さった。私達は各階に分かれて行動した。
 大きな体育館と違って、小さな教室は幾分ほっとする。最初に入った教室には、ベッドに横になった男性がいた。津波から逃げる時に負傷したのが原因で、ほとんど寝たきりになっている。今回の震災と避難所の生活により、多くの人が寝たきりになるのではないかと、今日も私は危惧した。私はまずこの男性と奥さんに、次いで隅っこでじっと座っている女性、そして横になって目を閉じている女性に声をかけ、マッサージをさせてもらった。彼女は眠っていたわけではない。ほとんどのお年寄りが、誰とも話さず、何もせずに一日を過ごしている。彼らの辛抱強さと礼儀正しさ、柔らかい物腰、謙虚さは世界が驚嘆する通りだ。が、お年寄りからすべてを取り上げたこのままではいけない。一緒に歌ったり、運動したり、遊んだり、皆のために働く役割があったらどんなにいいだろうと思った。
 次の教室では、30歳くらいの、顔色の悪い、痩せ細った女性と会った。「胃潰瘍で10日間入院していて、今退院してきたところなんです。」生気のない顔に、無理して作る笑顔が痛々しかった。どこかの子供が彼女にまとわりついていて、トランプ遊びをねだっている。その子供もまた心のケアが必要な状態なのだ。彼女は強度の貧血で倒れ、意識を失って救急車で運ばれた。その時には、通常の半分しか血色素がなかったという。震災と避難所の生活がストレスとなって、胃からじりじりと出血が続いていたようだ。輸血をしても、このような生活を続けていれば、次は吐血、下血という恐ろしい事態を招きかねない。私はマッサージをしながら「私は看護師です」と名乗るようにしていた。そうすると、たいてい心に秘めていた健康上の不安を打ち明けてくれる。その人の体から心へと入っていける。
 別の部屋では、脳性麻痺の女の子が、車椅子で寝かされていた。透き通った肌がまったく外に出ていない生活を思わせる。ご両親はどのようにしてこの少女を津波から守ったのだろう。薬は手に入っただろうか。埃っぽい環境の中で状態は悪化しないだろうか。この少女の今後を案じた。

 この日、私は機嫌の悪そうな女性と話をした。彼女は若い時にこの町にお嫁に来て、1年4ヶ月前に夫婦で頑張って家を建てた。両親と一緒に住んで、親孝行をしようと思ったのだ。その家も流されてしまい、多くのものを失った彼女は、行政の対応の遅さに苛立ち、ひとしきり不満を並べた。
 その時、また地震速報が鳴った。
 一瞬、緊張で身構える。しばらくして横揺れ。ラジオは福島で震度6の地震を観測したと告げていた。強い余震が連発している。人々の不安に追い討ちをかける。
「今回の地震は、まだ本物ではないのよ。」「宮城沖地震はまだ来ていない。もっと大きな地震が来ると、みんな思っているのよ。」彼女は続けた。本当の地震がこれからもっと恐ろしい形で来るということを、この地の人々が覚悟していることに、私は非常に驚いた。それでもこの地に留まろうと決意しているのだ。
 私は黙ってハンドマッサージを続けた。しばらくして、「どこから来たの?」彼女は尋ねた。「神奈川です。」そう答えると、「気をつけなさいよ。マスクをつけていなさい。二重にしていなきゃあだめよ。」「ボランティアに来てくれてありがとう。危ないから絶対海岸の方を歩かないようにね。用がない時には海岸を通らないように。」まるで自分の子供に言い聞かせるかのように、真剣に私を諭した。
「復興できたとしても、自分は生きているかしら」と彼女はつぶやいた。「まだそんなにお若いのに。」と返すと「私、55歳なんですよ。」と言う。明日は私の55回目の誕生日。私と同い年だ。「私たち同い年なんですね。あなたにお会いできて本当によかった。」私はお礼を言った。
「どうか、お体に気をつけて下さいね。」そういって彼女の両腕を握ると、私の目から不意に涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。被災して疲れきっている同い年のこの女性は、健康で何不自由ない私の体を案じて、心からいたわってくれる。まったく逆ではないか。彼女も泣いた。最初の固い表情とはうって変わった、穏やかで情愛に満ちた表情だった。この出会いを境に、私はすっかり涙もろくなってしまった。


おらあ、うなぎを開いていたんだ

4月13日(水)宮城県亘理郡亘理町 亘理小学校体育館  

 亘理町はさらに災害対策本部が確立していた。私達は受付でボランティア登録を済ませると、全員が本部のオリエンテーションを受けた。二次災害に遭わないように、不測の事態に備え、ボランティアの安否が把握できるようにとの配慮だ。たくさんのボランティアが次から次へと入り口に溢れる。若者もいるし、私の年齢の人もたくさんいる。外国人もいるし、若い女性もいる。駐車場ではボランティアが設営したテントが張られている。私達には教会堂や宣教師アパートがあるので、いかに恵まれていることかと思った。
 私達は亘理小学校、中学校、高校の3つに分かれて活動した。私は亘理小学校だ。いつものように、運動場に設置された仮設トイレに入る。節水のために少量ずつポンプを踏んで水を流す。手を洗う水はなく、消毒液で洗浄する。私は個人用にも消毒液を持ち歩いていた。
 体育館の中を手分けしてくまなく歩き、ハンドマッサージを勧める。たくさんの人と接しながら、私はだんだん言葉数が減っていく自分に気づいていた。手を通してのコミュニケーションで語り合えるので、多くの言葉は必要ない。被災された方が黙っている場面も増えてきた。心地よい自然な沈黙だ。
 70歳くらいの男性が、背中を丸めて座っていた。この避難所では低い仕切りを使っていたので、どういう家族単位で避難されているのかがひと目で分かる。彼には家族がなく、ここでは一人のようだった。彼に何があったかは知らない。彼は傍目にも非常に穏やかな表情でじっと座っていた。「マッサージさせてもらっていいですか。」声をかけると、「はい、お願いします。」の丁寧な返答。オイルを温めて、腕全体にゆったりと広げる。マッサージを始めると、その人はしばらく私の手の動きを見ていた。
「おらあ・・」小さな声で何か話そうとしている彼に気づき、私は顔を近づけた。彼はなつかしむかのように言った。「おらあ、うなぎを開いていたんだ。」私はうんうんとうなづき、その手を優しくなでながら、「よく働いてきたんだね。この手でうなぎを開いていたんだね。本当にありがとう。」そう心の中で語りかけた。それは彼の生きがい、誇り、喜び、彼のすべてだったのだ。その仕事で家族を養ってきたのだ。胸がいっぱいになった。「神様、どうかこの方に私の思いが伝わりますように、慰めと平安がありますように、あなたの愛を感じられますように。」私は手に精一杯の祈りを込めた。
 すると、ぐすっ・・鼻水をすする音が聞こえた。そっと目を上げると、彼の目に涙が溢れている。祈りを通して心が通い合い、私の思いが確実に伝わったと感じた瞬間だった。「おらあ、おらあ、うなぎに串を刺していたんだ。」私は慌てて下を向き、またうんうんとうなずきながら手をすべらした。私も涙をこらえていた。神様の愛がこの空間を満たしている。この人がもとの仕事につけるかどうかは分からない。私は、明日も明後日もまたここに来たいと思った。「どうかお体を大事にして下さいね」別れの言葉に、彼は丁寧に何度もおじぎをした。その後彼はまたもとのように、この上なく柔らかい表情で背中を丸めた。


娘は津波で流されました

 この日私は始めて、身近な肉親を津波で亡くされた人の話を聞いた。その女性は75歳くらいだろう。マッサージを始めると彼女は突然、「私の娘は津波で流されました。」私の目を見て、しっかりとそう話し出した。うなぎ焼のおじさんと別れたばかりで、私はとても敏感になっていたこともあると思う。彼女があまりにも唐突に、淡々と私の目を見つめて語るものだから、私は思わずぽろぽろっと涙をこぼしてしまった。
 かばんからタオルを取り出して涙を拭いていると、「こんなことを話してごめんなさいね。泣かせちゃったわね。」と彼女は言い、その娘がいかに親孝行であったかを話し始めた。私に話すというより、むしろ娘が自分にしてくれたことをひとつ残らず思い出して、それを自分に言い聞かせるような、そんな話しぶりだった。「口数の少ない子で、あまり遊びにも行かない子だった。」「でも、どんなに忙しくても、週に2回は必ず私のところに来てくれていたんです。」彼女は愛する娘の葬儀を済ませてきたばかりだった。
 拭っても涙が溢れるものだから、私は途中で何度もマッサージをする手を止めざるを得なかった。周りの人は何事かと私をちらちら見ている。まるで反対だ。彼女は前と同じ言葉を繰り返した。娘がどこにも遊びに行かず、毎週欠かさず自分たちの所に来てくれたということを。私は繰り返される言葉を、涙しながら黙って聞き続けた。私は純粋に、混じり気なく真心から、悲しむ者と共に悲しんでいる自分に気づいた。同時に、私が悲しむことによって、この女性が慰めを感じていることにも気づいた。おそらくこの女性に寄り添うために、主が私に共に悲しむ心を授けてくださったのだ。
 彼女はこれからも何度も思い返して悲しむだろう。しかし、やがて娘が遊びに行かなかったことが不憫でなかったことも、母親のもとに毎週通うことで娘に負担などかけていなかったことも、それどころか、それが娘の喜びであり、心からの望みであったことをはっきりと知る時がくるだろう。私は彼女がこのような娘を育てた自分に満足を覚える日が来ることを信じている。


復興した時にはもう死んでいるよ

 70歳くらいの男性がいた。ステージでは体操のボランティが皆に体操の指導をしていて、彼は体育館の前の方で元気に参加していた。私の呼びかけに「やあ、こんにちは。じゃあ、よろしくお願いします。」彼はハンドマッサージを喜んで受け入れてくれた。
「おれ、世界一周旅行に行くのが夢だったんだよね。」「ローマ、ギリシャ、エーゲ海、運河を越えてエジプト、トルコ・・」彼は立ち上がって、大きな声で朗々と地名を挙げた。この人はなぜこんなに大きな声で皆に聞こえるように話すのだろう。場にそぐわぬ会話に、私はかえって彼が悪く見られないかと心配したほどだった。
「世界一周旅行ですか。いいですね。」と返すと、また地名を連呼する。「その旅には、どのくらいの日数とお金がかかるのですか。」と尋ねると、「エコノミーで500万だね。100日の旅として、1日5万かな。まあ、上を言えばきりがないけどね。」彼は本当に世界旅行を計画していたのだろう。世界一周プランをいくつか紹介してくれた。
 しかし、饒舌な彼もマッサージが始まると目を閉じ、静かに私に身を任せた。彼はぽつりと言った。「おれ、津波見たんだ。」「そうだったんですか。見たんですか。」「ああ、すごかったよ。」沈黙が続いた。「ああ無理だな。復興した時には、おれは死んでいるよ。復興には10年や20年はかかるだろう。」確かにそうかもしれない。本来は快活なこの男性は、希望と絶望の狭間で自分をどう処していいのか苦闘しているようだった。「無理だ。すべてなくなってしまって、一からのスタートだから。」彼の中で繰り返す自問自答。私はじっと耳を傾けながら、心をこめてマッサージを続けた。疲れ切った体と心に少しでも安らぎがあるようにと願いながら。
 私は元来おしゃべりな自分の口数がますます減っていくのを感じていた。私の思いも、願いも、メッセージも、愛情も、すべてこの2本の手で伝えることができる。それは口よりも正直で、雄弁で、深く染みこんでいく。黙って耳を傾けることの力を私は少しずつ学んでいた。
 話しかけようと顔を上げると、彼のマスクの中に何本もの涙が流れ落ちるのが見えた。


追い詰められた親子

 帰る時間が近づき、まわりを見回すと、体育館の後ろの方で二人の仲間がしゃがみ込んで話をしている姿が目に入った。その時間がとても長かったので、帰りを催促しようと少し顔を出してみた。
 40歳くらいの母親と13歳の娘さんがいて、母親は娘の体のことで大変悩んでいる様子だった。娘はこれまでに喘息による10回の入院歴があり、学校でもいじめられていたらしい。新学期が近づき、学校が始まると、娘はまたいじめられるのではないかと不安で仕方ない、というのが彼女の悩みだった。大震災の影響で、娘は毎日のように過呼吸症候群にも苦しんでいた。余震のたび発作を起こしては病院にかけつけるらしい。それでも、赤ら顔のその少女は隠し立てなく何でも話す明るさがあり、甲斐田兄弟と桐沢姉妹にすっかりなついて甘えていた。
 私は初めから母親の視線がとても気になっていた。彼女はずっと私の方を凝視し、目をそらさない。娘のことを相談しているが、その視線が病的な感じなのだ。私は彼女のそばに近づき「お母さんの体こそ、大丈夫なんですか。私はお母さんの方が心配です。」と率直に話した。「実は・・」彼女は話し始めた。「私は大変な病気を持っていまして・・膠原病で治らない病気なんです。」彼女は、娘のことを過度に思い悩む自分の方こそ助けが必要な状態にあることに気づいていなかった。ここにきて彼女は、自分自身のことについて堰を切ったように話し出した。「ご自分も病気なのに、それは大変でしたね。ところでご主人は?」と尋ねると、
「お父さんは腎臓が悪くて、透析に行っているよ。糖尿病もあって、この前も危なかったんだよね。」と娘が即答した。あり得ない!と思った。家族全員リスクが高く、病院でいるべき人がこの寒くて窮屈な避難所にいることに、私は違和感と憤りに似たものを覚えた。避難所の生活は、彼らにとってあまりにも過酷で危険だ。
 私はせめて母親の心を少しでも楽にしてあげたかった。「お母さん、娘さんが甘えてきた時に抱いてあげるので十分なんですよ。」娘のことが心配で、いつも守り、かばい、抱きしめ、囲ってきた母親は、自分の体をいたわることがなかった。そのことが様々な悪循環を生んできた現実。「甘えてきた時に抱きしめてあげるだけで、それだけでいいんですね。」「ずっと抱いていなくてもいいんですよね。」母親は何度も私に尋ねた。「どうか、ご自分の体も大事にしてくださいね。娘さんはお母さん思いのすばらしいお嬢さんですよね。娘さんはお母さんが思っているよりしっかりされていると思います。お母さんも知ってらっしゃいますよね。」母親の表情は緩み、うんうんとうなずいた。娘は私たちに、実は母親が過剰に心配するのが窮屈で嫌だった、何もできなかったということを打ち明けた。
 この女性には専門家による心のケアが必要で、おそらく震災前から心の病があるのだと思う。震災が傷口をさらに大きくし、生活をより困難なものにしている。苦しいことはこれからもあるだろうけれど、母親には代ってやれない、子供が自分で乗り越えていかなければならない厳しい現実がある。
 最後に、私は母親を固く抱きしめた。母親は私にしがみついて泣いた。これまで甘えることなどなかった彼女が、今度は娘のように私に抱かれた。甲斐田兄弟と桐沢姉妹は娘をしっかりと抱きしめてくれていた。
 この家族に適切なケアが行なわれるようにと心から願った。同時に、私達の無力さを思い知らされた。
 

被災された案内人

4月14日(木)宮城県牡鹿郡女川町 女川第1小学校、勤労青少年センター・・ 傾聴ボランティア、老眼鏡を届ける

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 この日、私達は全員女川へ向かった。これまで何度か通った石巻を通り過ぎると、津波が嘗め尽くしたがれきがさらに延々と続いた。がれきの向こうには、静けさを取り戻した海がひたひたとそこまで来ている。今地震が起きれば、この海はまた押し寄せてくるのではないか。私は猜疑心を持って海を見ていた。
 車に同乗していた仲間たちは、この事実を残しておこう、友人に伝えようと、しきりにシャッターを押している。私は今回の旅にカメラは持参しなかった。今もその気になれなかった。本当なら美しい海岸線を楽しんでいたはずの行程も、ここまでできるかと思われるほど完璧な破壊の爪あと。鮮やかな緑や青に恵まれたこの地は一面平坦な灰色と化し、よそから来た私でもその事実を受入れがたい。
 女川に着くと、60歳くらいの現地の女性が案内役をしてくれた。ご自分も被災されたにも関わらず、ボランティアの募集に進んで応募し、案内役を買って出たという。がれきの中に緊急に作られた道をぬっていくと、彼女は「あそこが流された私の家があったところです。」と左側を指差した。その先を見つめると、四方八方どこまでもがれきの山。その女性の言葉に、私達はなんと答えていいのか窮してしまった。自分の不幸をそのように案内できる人がいるだろうか。女性は淡々と普通の表情で、時に笑顔を交えながら案内を続けた。
 すべてががれきとなった今も、彼女はそれぞれを「ここは〇〇です。」と説明した。私たちにはがれきとしか映らない光景も、彼女にとっては、つい先日までそこに存在した美しい自然や町並みを重ねて案内しているのだ。私はがれきを単なる撤去する不要物としてではなく、尊厳をもって扱わなければならないことを感じた。

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 横倒しになって鉄骨がむき出しになった建物には、がれきが幾重にもぶら下がり、遠目にはそれが引っ掛けられた藁、押し込まれたような弱々しい紐のようにも見える。その上には転がることもできずに置き去りになった船や車。アララテの山頂に置かれたノアの箱舟を思い出した。
 高台には女川町立病院があった。標高15mの高台にも津波は押し寄せてきた。波は17mくらいの高さまで来たとその女性は語った。想像もつかない威力、破壊力が、何度も行きつ戻りつ、この町を破壊し尽くした。「ここからが一番よく津波の被害が一望できます。」彼女はまるで観光名所を案内するかのように、こともなげに言った。自分に遠慮などせずに、この悲劇を直視するようにと私たちを促したのだ。
 車はさらに海岸線を走った。「向こうに見えるのが女川原発です。ここから約20kmです。原発事故が起きたら、ここはもうだめですね。事故がないのを祈るだけです。」この地域の人達は津波による壊滅的な被害を受けた上、原発事故への不安も抱えているのだ。
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 しばらく車を走らせていくと、眼下に海が広がった。彼女は目を細めて語った。
「いつもはとってもきれいな、とても穏やかな海なんですよ。でも一度牙を剥いたら、どうしようもなく恐ろしい。今はこんなに静かですけどね。」この地の人は海を怒ってはいなかった。やんちゃな息子を見るような目で海を見て、「どうしようもないものね。」と言う。海は何も悪くない。海は絶対で、人々はこれまで自分たちを海に寄り添わせて生きてきたのだ。多くを奪った海は、同時に、これまで彼らを豊かに養い、育て、守ってきた。その奥深い絆は私たちには分かり得ない。被災された人に「一番食べたいものは?」と誰かが尋ねると、「やっぱりここでとれた刺身だね、最高にうまいんだよ。」そう返ってきた。
 
喜ばれた老眼鏡
 
 教会は1000個の老眼鏡を用意し、それをプレゼントすることに決めた。私たちはこれまで何日間か注文を聞き歩いて届けてきたが、今日は避難所で受付の場所を設け、希望する方に直接お渡しすることになっていた。

 小学校でいつものようにハンドマッサージをしていると、「老眼鏡が必要な人は玄関に来てください」の案内に、あっという間に教室ががらんと寂しくなった。やがて彼らはざわざわと帰ってくると、真っ先に新聞に向かった。「見えた、見えた。」の声が上がる。「眼鏡のアイザワですって。一流のところよ。うれしいわあ。」と大好評だ。感謝の言葉が飛び交う。私も嬉しくなった。これほど老眼鏡は必要とされていたのだ。教会がこんなにタイムリーにすばらしいプレゼントを思いついたことに嬉しくなった。
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 津波が押し流したのは、眼鏡だけではなかった。
 小さく丸まって横になっていた75歳くらいの男性に「楽になりますので、手のマッサージをしましょうか。」と私は声をかけた。「じゃあ、腰をやってもらおうかな。」その男性はふらふらと立ち上がり、うつぶせになって体を伸ばした。腰のマッサージを始めると、彼は先ほどトイレで転んで、あちこちが痛いんだと打ち明けた。震災後、何度も何度も転んでいると言う。心配する私に「平気だよ。どうってことないよ。」と言うが、今回はトイレでの転倒。水がはねないように敷かれたダンボールの段差でつまずいたらしかった。高齢者の視点に立った危険の予測が不十分で、加えて、高齢者が我慢強くて慎ましいものだから、彼らの声も上がっていかないのだ。
「杖は使っていないんですか。」そう尋ねると、「流されてしまったから、壁伝いに歩いている。棒っ切れでもいいから杖がほしい。」と乗り出してきた。「すぐ確認します。待っていてください。」私は避難所の本部に駆けつけた。ありがたいことに、昨日届いた支援物資の中に杖が1本入っていたということで、私はすぐにその人のもとに戻った。「一緒に歩いてみましょう。」杖の長さを確認し、少しの距離を歩くと、彼は顔をほころばせた。「助かったよ。ありがとう。これで、後ろ歩きもできるかな?」先ほどまで黙ってうずくまっていた人が、冗談を言い出した。杖を送ってくれた誰かの気の利いたプレゼントが本当にありがたかった。

ようやく渡せたしゃぼん玉

 避難所まわりを終え、私たちは帰路に着くことになった。仮設トイレの後ろには仮設住宅の建設が進められている。よく見ると、建っている地面が大きく割れている。かなりの戸数の建設が急務であり、他に建設する適切な場所も見つからないのだ。津波に襲われる心配のない高台は限られており、相次ぐ余震でできた地割れは工事を遅らせているようだった。
 最後の働きを終えて車に乗り込む前に、私は案内役をしてくれた女性に感謝とお詫びの気持ちを伝えたいと思っていた。車中での時間、私たちは被災者として彼女を気遣ったとは思えなかった。写真を撮ったり、軽率な会話の中には、きっと彼女の心を傷つけたこともあったと思う。それでも彼女は一度も感情を取り乱すことなく、静かに、丁寧に、案内をしてくれた。
 私は彼女に駆け寄った。「ありがとうございました。嫌な思いもさせたりして、申し訳ありませんでした。」
「どうかお体を大切にしてくださいね。本当はあなたにもマッサージさせていただきたかった。」両手を握りしめ、肩を抱いた。彼女は顔を覆って泣き始めた。仲間たちが次から次へとやってきて、彼女を抱きしめた。
 すぐ近くに、一人のおばあさんと孫がいた。もうこれで最後なのだ。私は車に戻り、1週間持ち歩き続けたシャボン玉を持って来て、女の子に手渡した。「やったあ。」その子は両手をあげて喜んだ。私たちは傾聴ボランティアとして参加した。本部としてはハンドマッサージのみを通して傾聴し、個人的に何かを差し上げることは控える方針だった。私は娘から預かった10冊ほどの絵本を甲斐田兄弟に渡すと、彼は子供たちに読み聞かせ、そこに置いてきてくれた。他の姉妹から預かった色紙も渡してもらった。「いいんじゃない。すごく喜んでいたよ。」の彼の言葉に私の心も晴れた。

贖いの力

 今回ボランティアに応募する時に、まず読んでくださいという項目に「健康であること」が挙げられていた。私はこの一文を見て、過酷な状況に向き合うことを予感した。迷惑をかけないように、私は絶対健康でなければならないと覚悟した。
 生活は幾分過酷だった。既往歴もあり、50歳を超えた私には、レトルト米と缶詰、カップめんという食生活が続くことは、何か病気を引き起こしそうで怖かった。車中での移動時間が長く、仮設トイレもあまりないために、私は水分の摂取も控えていた。さらに、睡眠不足が続いた。ボランティアは多くの人が入れ替わって参加した。若くて繊細な心を持つ人の中には、心に傷を負う人もいた。この1週間で震度6の地震が3回も東北地方を襲い、ボランティアの最中や反省会、眠っている時にも、余震は頻繁に起こった。このような状況の中で人々は疲れ、様々なことに適応できなかったり、我慢できる閾値も下がってきたりする。運営上の不満も見え隠れした。やりたいことと求められることの狭間で葛藤する場面もしばしばあった。人間関係に苦しむ場面も見られた。
 私は毎晩、皆で聖典を読み、互いに心の思いを話し合うようにした。反省会が終わった後もアパートで経験を分かち合った。ある晩、一人の姉妹が夢でうなされた。切なく、苦しそうな泣き声が長く続くと、私は心配で眠られなくなった。次の日、私はそのことについて話を切り出した。すると、一人の姉妹が「それは多分私です。」と言った。彼女は最初に体験した震度6の余震がとても怖かったけれど、実はそれをぐっと抑えていたことを話し出した。それが意識的なのか無意識的なのかは、彼女は分からないと言った。当然、地震の前から、あるいは仙台に来る前から抱えてきたものもある。いずれにせよ、心の傷が深くならないようにとの配慮は常に必要だ。とにかく非日常的な経験の中で私たちが受ける精神的なダメージは、確かにかなりのものがある。健康だと思われる人が、ある経験がひきがねとなって心を病むことは普通にあることなのだ。
 このような悩みや問題から人々を解放し、慰めと安らぎを与えてくれたのは、やはり主の言葉だった。イエス・キリストは本当に私たちを悲しみや苦しみの淵から贖って下さるお方であり、その言葉に力があり、命があることを、皆が確かに知った1週間でもあった。私達は主の言葉に力づけられ、毎日出かけて行った。
 絶望的な状況に置かれても、人々は徳高く踏みとどまり、必ず立ち上がろうと希望を抱き、心の奥ではそれができると信じている。私たちの心は被災者に向かい、彼らの重荷を少しでも軽くしたいという思いが日本列島を包んでいる。私は主がまさに被災された人々を支え、この地を、そして日本人の心をも復興させようとしておられるのを知った。

また会いにきます

 23時59分発のバスに乗るために、甲斐田兄弟と二人の姉妹が私を仙台駅まで送ってくれた。重いスーツケースの中には、使わなかった紙芝居などがほとんどそのままあった。
 とにかく元気に過ごすことができて良かったという安堵感が胸いっぱいに広がった。神奈川に帰ったら山のような用事が待っている。私はバスに乗り込むと、体を少し斜めに倒し、目を閉じた。
 バスが発車する音が聞こえた。来た時とは反対に、そっと静かに仙台駅を離れていく。
 その途端、急に込み上げてくるものがあり、閉じた目から涙が次から次へと溢れ出した。「おらあ、うなぎ開いていたんだ。」「おらあ、串に刺していたんだ。」あの穏やかな男性の顔が浮かんできた。「マスクを二重にしなさいよ。海岸に近づいてはだめよ。」と私の体を案じてくれた女性、私に抱きついて泣いた女性、世界一周の夢について語ってくれた男性・・次から次へといとおしい人たちの顔が浮かんできた。
 こらえきれなくなり、私はタオルを出して泣いた。触れ合った人たち、被災されたすべての人たち、そして東北の人たち、壊滅的な被害を受けたこの土地をこれほど愛するようになった自分に、今になって私はようやく気づいたのだ。私はかつて故郷を離れた時に味わったあの切ない、胸を締め付けられるような思いをまた味わっていた。
 私はこの大震災、この地に住む人達を決して忘れない、置き去りにはしないと心に誓い、「また会いにきます。」と仙台に別れを告げた。次に訪れる時には、真っ先にあの湊中学校へ向かいたい。災害対策本部が設置されたことでこの恵まれた機会を得たことに心より感謝すると共に、うまくは伝えられないだろうけれども、皆の心が被災された人々に少しでも長く向かうよう、私も何かできればと思っている。   
<完>

2011年4月19日 (火)

海の波の声の証

震災の3週間前の2月19日,日本と韓国を訪れた十二使徒のジェフリー・R・ホランド長老は,使徒職に与えられた神権の鍵と権能により,このアジアの地に次の祝福を残して行かれました。

「わたしは韓国と日本の国々を祝福します。また,宣教師が働くこの地域にある他の島々を祝福します。御父よ,この地域の人々が御霊の促しにこたえ,真理を見いだすうえで心に飢えを感じるよう祝福してください。そして,この地の宣教師たちが御父の真理を語るとき,御父の代理人として語っていることを彼らが悟るよう祝福してください。……それは,今回この地に使徒が訪れたことによって大きな前進が見られるようにするためです。わたしは以前に鍵が回されたように,もう一度鍵を回します。新しい章が始まり,全世界で最も重要なこの御業がさらに高い成果を上げ,さらに大きな成功を収めるようになるためです。」(2011年2月19日,名古屋伝道部にて──『リアホナ』2011年4月号ローカルページ,4,強調付加)


直接の被災地となった仙台伝道部エリアと,影響を受けた関東圏や北海道の一部などでは,この大震災を通じて,心の飢えを感じた方は多かったのではないでしょうか。少なくともわたしはそうです。

聖文や預言者の言葉が何を示唆しているのか,
この日本における主の御心がどこにあるのか,軽々しい解釈や憶測は慎むべきでしょう。
あえてどなたかに何かを押し付けるつもりもありません。

それは,この荒涼とした光景を前にして,わたし自身が個人で考え行動していくことです。

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Photo by Masami Ikeda(*写真全体をご覧になりたい方はウィンドウを右方向に拡げてください)

「すなわち,洪水の出る前,ノアが箱船にはいる日まで,人々は食い,飲み,めとり,とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて,いっさいのものをさらって行くまで,彼らは気がつかなかった。……そのとき,ふたりの者が畑にいると,ひとりは取り去られ,ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると,ひとりは取り去られ,ひとりは残されるであろう。」(マタイ24:38-39)


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Photo by Shori Kurita

「また,あなたがたの証の後に,激しい怒りと憤りが人々に及ぶ。
あなたがたの証の後に,地の中でうなりを起こす地震の証が来る。そして,人々は立っていることができず,地上に倒れる。
また,雷の声と,稲妻の声と,暴風雨の声と,その境を越えて打ち上げる海の波の声の証も来る。
また,すべての物事が混乱する。そして,必ず人々は気落ちする。恐れがすべての人に及ぶからである。」
(教義と聖約88:89-91,強調付加)

1832年にジョセフ・スミスに与えられた啓示の言葉です。これまで何度も読んだくだりでした。
それを,東日本大震災後に読むと,これほど実感をもって迫ってくるとは思いも寄りませんでした。

宣教師の声だけでなく,地震や津波も証なのだ,と思うと,何か畏敬の念がわいてきます。

「人々は気落ちする……恐れが及ぶから」というのは被災地の現在とこれからの現実です。
愛は恐れを取り除く,と福音は説きます。
どんなに現実が過酷でも,イエス・キリストの贖いによる癒しの力に希望があります。

2011年4月 8日 (金)

「肉の腕には頼りません」(2Ne 4:34)

Img_0042震災以来,やはり心のどこかが浮き足立っていて,
ブログを書く心の余裕がありませんでした。
一種の失語症状態というか……
被災地のあまりの凄惨さに,ブログどころじゃない,という心理状態でした。

(写真:津波に店内を根こそぎさらわれた海岸沿いのコンビニエンスストア。宮城県亘理郡山元町にて)

今,関東圏では日常生活にさほど不自由はありません。
まず(比較的)無事な地域が立ち直り,日常生活を取り戻すことが必要だと言われています。
ブログを再開することが日常を取り戻すよすがとなればと願っています。

東北の,ほんとうに大変な沿岸地域以外では,物資も行き渡りはじめ,
ライフラインもある程度復旧し,ガソリンの供給状況もかなり改善した,と現地から情報が入ってきました。
今は,津波で被災した沿岸地域への毛細血管のような交通路復旧と物資の供給が課題だと聞いています。

(写真:ガソリンスタンドで給油を待つ長い車列,3月19日,仙台市内にて)
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所によっては,家は津波の被害を免れたものの,地域の物流が途絶えているので,陸の孤島と化しているとか。
避難所や地域の役所には物資があるのに,そこまで取りに行く車やガソリンがないので
被災家庭にまで物資が行かないとも聞いています。
同じことは,放射能の風評被害で物流が途絶えがちな福島県いわき市などでも起こっているそうです。

震災直後,関東でも一時期,店頭から米やパン類,カップ麺の類いが消えました。
原発事故報道の後には水のペットボトルが消えました。

今はかなり普通に戻りましたが,そのとき痛感したのは,
わたしたちの日常が,ガソリンや軽油──化石燃料という血液によって支えられていたこと,
それは意外ともろいものだったということです。

(それから,他所に押し付けた原発の電力で都市生活が成り立っていたという事実を肌で感じました。)

血流が途絶えれば,その身体部位は麻痺し,やがて壊死していくように,
燃料がなくなり物流が途絶えれば,地域社会の生活は壊れていきます。
わたしが住んでいる都市近郊の住宅地などはあっという間に陸の孤島です。
地域で食糧を生産していないところは日本中どこでも大同小異でしょう。

(写真:食品の消えた仙台市内のコンビニの棚。3月17日ごろ)

Img_1942これまでも,スマートグリッドとか,生鮮食品や電力の地産地消による高効率エネルギー消費社会とかいった提言がなされてきました。
しかし,豊かな日常生活に慣らされた目には,それが差し迫った課題とは感じられなかったのも事実です。
これを機に,平時には硬直して動かしようのなかった社会システムが変わり始めるのではないかという期待もあります。


ただ,そうした社会システムの改革といったレベルの話とは別に,
わたしたちがほんとうに頼るべき岩がどこにあるかを,教会員の皆さんは今一度実感されたのではないでしょうか。

1000年に一度と言われる今回の震災で,よく「想定外」という常套句が使われました。
人の知恵で想定できるほど,自然災害は甘くないということがよく分かりました。
(ましてや,聖文には末日のさらなる災厄の預言が記されています。)

そして,800年ほど前の平家物語や方丈記に描かれている,無常観という(えー,仏教用語ですが)
日本人古来の感性が甦ったように思います。

日常の物質的豊かさは決して磐石なものではない,
物質的な富や人の知恵(肉の腕)を頼ってはならない(2ニーファイ4:34参照),
それを意識しただけで,
福音に対する日本の人々の心も少しは変わるのではないかと期待する気持ちもあります。


Img_1922長くなるので今日はこの辺で。
次回は,「心の飢え」について書きます。


(写真:宮城県石巻市にて)

2011年4月 5日 (火)

東日本大震災によせて

207874_163068483750389_135579886499 東日本大震災から3週間が過ぎました。
教会でも物資の提供や救援隊への志願受付が本格的に始まりました。世界的にも支援の手が広がり続けています。みなさんもきっといろいろな方法で被災地の方々を助けようと心を砕いておられると思います。その全ての方に心から尊敬と感謝の気持ちを捧げます。

これからお話しするのはわたしの個人的な思いと感じている事柄です。

震災のニュースが流れた時はこんなに大変なことになるとは夢にも思っていませんでした。
阪神大震災の180倍の強さの地震と聞いてもそれがどのくらい大きいのか想像ができず,
大きな津波が町を襲ったというニュースを見てもその脅威も恐怖も理解できませんでした。
それでも関東に住む友だちの
「店に何もない。米を買えたけれどそれがその店の最後の米だった。」
「福島の両親に避難してくるように話したけれど,ガソリンがなくて行けないって言っていた。」
という言葉や,インターネットで流れている映像・写真をいくつも見るうちに,
『これは大変なことだ』
と感じるようになりました。
『3週間経った今でも行方が知れない人々がたくさんいらっしゃって,
避難所で厳しい生活を強いられている方々も大勢いらっしゃる。』
『店が開いても購入する数が決められていたり,本当に必要なものがなかったりする。』
『水が配給のところもあるし,薬が手に入らないところもまだまだある。』
『せっかく生き延びたのに避難所で命を落とされている。』
情報はたくさん入ってきています。
原発の様子も毎日,毎時間,聞かなくても耳に入るくらい報道されています。
『大変なことだ。』『何かできることをしなければ。』という思いを抱きつつも,
わたしはそれが遠いところでおきている出来事のように感じています。

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同じ日本でありながら,それほどに,九州に住むわたしの毎日は普通です。
不足しているものが何もありません。
大きいサイズの乾電池や卓上ガスコンロなど一部売り切れのものはあります。
ガソリンスタンドには『節約して使ってください』という張り紙もあります。
町全体が心持ち節電で薄暗いかもしれません。
ですが,生活はいつもと何も変わらないのです。

こんな中で被災地のかたがたの悲しみや苦しみがわかるはずもなく
『テレビから震災のニュースが減って目にすることがなくなってしまったら
きっと喉元過ぎれば・・・になるのだろうなぁ』と思うわたしがいます。
もちろん,離れたところに住んでいても自分のことのように受け止め,
心を痛めている人がたくさんいると思います。

でもわたしのようにいまひとつピンときていない人たちも意外と多い気がします。

2こんなに大きな震災で壊滅状態になった町々も,道路があっという間に修復されたように,
きっと数年で元通りになるのだと思います。でも被災された方々の心はどうでしょう。
ご家族を亡くし,家や車,大切な思い出の品々を失くされた悲しみは癒えるのでしょうか。
本当の悲しみや苦労は町が復興したあとにやってくるのではないかと思うのです。
でもその時,果たしてわたしは彼らを思い出すのだろうか。
その時まで彼らに心を寄り添わせられるのだろうか。
そう自問する時に,「はい,必ず。」と言える自信がありません。けれども,本当に大切なのは,手を差し伸べる必要があるのはその時なのではないかと感じています。
数年後にこのことを思い出して,できれば何か行動できる自分であるように願うばかりです。

2011年2月24日 (木)

ほんとうの宝物。


YouTube: ほんとうの宝物.wmv

リアホナ2月号に efy Japan 2011 に向けてのFR活動の記事が掲載されています。
その中で熊本ステークの演劇が紹介されていますが,実はこの劇はFR活動のためではなく,セミナリー教師の『夢』から出発しました。

熊本市内には熊本・長嶺ワードと清水・坪井ワードの2つのセミナリーがあります。
この2つのセミナリーはここ数年,夏休みに1泊2日の合同合宿や1週間ほどの合同レッスンを行っています。
熊本・長嶺の教師の高橋姉妹と清水・坪井ワードの岸姉妹は3年ほど前から
『子どもたちがセミナリーでもっと楽しく学ぶためモルモン書の劇をしたい』
という共通の思いを持っていました。
合宿をするたびに「劇がやれたらいいね。」と話すのですが,いつもそこまでで進展はありませんでした。
昨年の春にセミナリー教師がインターネットクラスも加えて5人になりしばしば集まってミーティングをするようになりました。
「新しく教師になった東條姉妹のおかげでこの劇は実現しました。」と岸姉妹は言います。
東條姉妹はマネージメントの才能の持ち主でした。
話を聞いて「劇をやろう」と言い出し,そのための役割分担や具体的な予定を作って持ってきたのは彼女でした。
本格的に動き始めたのが5月,夏休み前には台本が出来上がりセミナリーの生徒に配られました。

劇の練習は夏休み中続けられました。
生徒のみんなが最初から喜んで参加したわけではありません。
教師の夢から始まった劇の練習ですから『やらされ感』満載で教師ばかりが盛り上がっていました。
それがどう変化していったのか・・・動画に現れているように思います。

衣装は演じた子どもの親が作りました。
セミナリーを卒業したばかりの兄弟が大道具・小道具を作り,演技指導をしました。
役のない子はひとりもいません。
黒子・裏方,全ての生徒がこの劇に携わりました。

夏中かけて作った劇は何をもたらしたでしょう?
「終わりの時の生徒たちの反応はすばらしいものでした。わたしたち教師も多くの証を,主に使われる喜びを得られました。」と岸姉妹は言いました。
きっと4人の教師の姉妹たちも同じ思いでしょう。
生徒たちの感想の一部です。

「最初,教師のやる気に正直ひきました。でも最後は御霊がいっぱいでした。」
「練習時間,本番当日も難しいことが多くて不安でした。けれどひとりひとりの演技によって多くの御霊・才能・一致・達成感・喜び・希望でいっぱいになりました。ユースは最高です。」
「思っていた以上に楽しかったし,出来もよかったと思います。友だちにも教会のことを知ってもらうためにDVDを見せたいです。」
「最初はこの活動に参加したというよりも参加させられたという感じで練習はきつかったです。モルモン書のラバンのところの理解が深まったのは確かです。」


FR
活動の目的のひとつはEFYに参加するユースが準備の段階から御霊を受け霊的な経験をすることです。
EFY
まであと半年,どれだけの霊的な感動・喜びが生まれるのか楽しみです。



2011年1月26日 (水)

輝け! 2010年度,ローカル記事アカデミー賞

663highland/Wikimedia Commons
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昨日全国発送されましたリアホナ2月号には,恒例の,2010年度ローカルページ索引が掲載されます。
昨年1年間のリアホナをひもときながらそれを作成していたとき,ふと,2010年度ローカル掲載記事アカデミー賞,という思いつきが浮かびました。
思いつきは即実行する編集担当のLDです。

皆さんは,昨年のローカルページで,どのような記事が印象に残りましたか?

編集者の視点と,読者の皆さんの視点はまた違うのかもしれませんが,
リアホナブログという双方向媒体も手がかりにして,独断と偏見のノミネートをいたしました。
(つまりブログで取り上げたとき,コメントがたくさんついた記事は,皆様の関心も高かったと言えますから。)

以下にノミネートされた記事の中から,読者審査員の皆様の投票で賞が決まります!

それでは1月号から順に参りましょう。(ダララララ……とドラムロールが響いているとご想像ください)

1 ● 特集:全日本シングルアダルトカンファレンス(1月号掲載)
これは特別にカラーページで組まれましたから,やはり印象の上では有利ですね。まあカンファレンスが行われてから掲載まで半年近くかかったというのはちょっとあれではございますが……

2 ● 御霊の力を借りて投げました!──陸上競技者 桑原 愛姉妹(2月号掲載)
これは編集者の推薦でノミネートされました。セミナリーで学ぶ福音の原則を,力まず自然体で競技生活に生かしているのがすばらしい。福音は遠い世界の話じゃないんです。セミナリー世代の青少年に届けたい一本です。

3 ● 特集◎保存版 MTCへの道(2月号掲載)
これもカラーページ特集です。初めてMTCへ向かった日本人宣教師グループに密着取材,画像を時系列でコママンガ式に構成しました。その後MTCへ向かった宣教師さんたちは実際にこの号を携えて旅程をたどってくださったそうです。
ちなみにブログへのコメントが多かったのは,MTCのカフェテリアの料理画像を掲載したエントリーです! おいしそう……とのご意見が多数……。

4 ● 福音とは喜びの知らせです─ダリン・H・オークス長老が語る(4月号掲載)
2010年に日本を訪問された十二使徒はオークス長老だけでした。日本人はまじめだけれど,「福音の中で十分な喜びを味わっていないのではないか」とのご指摘には考えさせられました……

5 ● 日本札幌神殿建設予定地を発表(6月号掲載)
これは特にブログではとりあげていませんが,心躍るニュースです。今年か来年,完成予想図や鍬入れ式といった情報が発表されるのが待ち遠しい限りです。建設が具体的に動き始めれば,連載コーナーを立ち上げる予定です。

6 ●『総大会ノート』,使ってみた?(6月号掲載)
これはブログが先行した記事でした。ほぼ同じ内容が1ヶ月後の6月号に掲載されました。記事そのものというより,「総大会ノート」という教会本部の企画が反響を呼んで,春の総大会のみならず,秋の総大会でも全国の初等協会の子供たちに広く使われたようです。秋の総大会が近づいたころ,読者の方から「春と同様にウェブに掲載してほしい」とのご要望をいただき,日本語教会公式サイトのトップページにしばらく置かせていただきました。

7 ● 人生は何が起こるか分からない─堀口(太田)章子姉妹(7月号掲載)
40年間あきらめずに神殿結婚を望み続けた姉妹が神殿で結婚するまでのストーリーです。良い話でしたね。この記事に関連したブログエントリーに寄せられたコメントは何と18! 伝統なきこのブログ史上最高記録です。共感度の高さが伺えます。

8 ● あなたはいつ,伝道に出ますか?──ステーク大会衛星放送より デビッド・F・エバンズ長老(8月号掲載)
前アジア北地域会長のエバンズ長老が衛星放送で日本の聖徒に伝道に出るよう語りかけました。その際挿入された,MTCで訓練を受ける日本人宣教師の様子を伝えたショートフィルムが話題となり,ウェブサイトでその動画が公開されました。ローカル記事とYouTube(動画サイト)コラボ企画の第二弾となりました。

9 ●「今すぐ,伝道に出ろ!」──渡壁正明兄弟(8月号掲載)
紆余曲折の末,ぎりぎりの年齢になって,伝道に出るべきかどうか山の上で主に祈り尋ねた渡壁兄弟。そこに自分でも予想しなかったこたえがやってきます……。これも若い人に届けたい良い話です。福音の原則の実例がきっちりと含まれていて,ブログでも何度か取り上げました。

10 ●「将来,お前がわしたちを救うことになる」──堀井紀久男兄弟(9月号掲載)
ちょっと不思議な話でした。幼少時に,亡くなった祖父と対面したことがあるとの記憶が綴られたものです。この関連ブログエントリにもたくさんのコメントをいただきました。皆さん,それぞれに不思議な経験をされているのですね。

ここにノミネートされた10記事の中からアカデミー賞を選出するなら,皆さんはどれを選びますか?

記事に付けられた数字だけでも構いませんので,コメント欄に記入して,ぽちっとご送信ください!
何故この記事がノミネートされないんだ!?といった抗議系のコメントも歓迎いたします。

いや,選ばれたからといって誰に何が贈られるということはないんですけれどね……

2011年1月18日 (火)

姉妹宣教師が衣替え

末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)の姉妹宣教師(女性の宣教師)の服装基準に変更が加えられ、このほど、服装や身だしなみに関する新ガイドラインが実施されるようになった。

教会は姉妹宣教師がもっと明るい色や柄の衣服、アクセサリーを着用することを奨励している。最近、宣教師の召しを受けた姉妹に対して、服装や身だしなみの標準ついてのガイドライン改定が写真入りで通知された。一方、現在伝道に従事している宣教師に対しては、伝道部会長から同様な連絡が行われており、新基準が広がりをみせている。

「教会は長老、姉妹の両宣教師に服装と身だしなみの基準を提示している。それは、許容される現行スタイルのなかに、威厳、プロ意識、そして謙遜を表わす外見を保っている」と、末日聖徒イエス・キリスト教会のスポークスマン、スコット・トロッターは話している。
 
新しい服装ガイドラインは、姉妹宣教師が、現在許容されているスタイルのなかにあって、より晴れやかな色と模様、シンプルなアクセサリー等を着用するよう勧めている。 スカート丈も、ふくらはぎの中央まで上げても差し支えないが、座ったり、立ったりするときに、ひざを覆う必要があるとしている。 
   
服装基準のガイドラインの改定によって、姉妹宣教師たちの外見がより魅力的となるほか、姉妹たちは控えめのカラーの衣服を着用するという通念を打破することだろう。   

服装基準の改定は、さらに姉妹宣教師たちを魅力的に輝かせるに違いない。

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2011年1月14日 (金)

末日聖徒イエス・キリスト教会、サスケハナ郡で歴史的土地を購入

Aronicp末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)は、ペンシルバニア州北部のサスケハナ郡に10エーカーの土地を取得した。これによりモルモン書の翻訳など、教会歴史ゆかりの地区で教会が所有する土地がさらに広がることとなった。

末日聖徒イエス・キリスト教会のスポークスマンを務めるスコット・トロットは、購入した10エーカーが「モルモン教創始の舞台となった歴史的に重要な場所の近くにある」と言明し、「将来のサイトの開発については何も決まっていない」と語った。

ハーモニーと呼ばれていたオークランド郡区一帯は、末日聖徒イエス・キリスト教会の預言者であるジョセフ・スミスが彼の妻、エマ・ヘール・スミスと初めて出会い、求愛し、結婚したところだ。

それはモルモン書の翻訳の多くが行われた場所、教会の聖典である教義と聖約中15ヶ所の部分について啓示が与えられた場所、そしてまた、バプテスマのヨハネが天使となって現れてアロン神権を授けた場所である。

「教会はこれらサイトの美観を保存すること、付近で進められている考古学と環境の調査を推進することを目指している」とトロットは語った。

この区画は171号線にあり、1965年以来バウトン家が所有し、車庫、廃品置き場、中古部品売り場を兼ねている場所である。土地購買契約は、モルモン教会が賃貸を決めた場合には、バウトン家がその土地の石油・天然ガスの採掘権を留保できるとしている。

ペンシルベニア・タイムズ・トリビューン紙は、土地代金は210万ドルにのぼるだろうと報じた。

10エーカーの区画は、2005年に買い増しされた178エーカーの教会所有地の隣りにある。

19歳のジョセフ・スミスは、この地区にあるといわれた銀山の地図を手にしたジョサイア・ストーウェルに採掘要員として雇用された父親と共にこの地にやって来た。スミス一家は、短期間、掘削に従事したあと、1825年11月、掘り続けても無駄であるとストーウェルを説得した。

スミス一家はハーモニーに滞在中、エマの父親であるアイザック・ヘールの家に下宿した。 ジョセフがニューヨークにあるストーウェルの農場で働くために去ったあとも、ジョセフとエマは交際を続け、1827年1月に結婚した。

ジョセフとエマ・スミスは、モルモン書翻訳の元になる金版を与えられた後、1828年にハーモニーへ戻り、ヘールの移転先に近い13エーカーの土地に落ち着いた。このあと彼女の兄弟の所有地にあった家に引っ越し、その家(後にスミスの家と呼ばれた)は1919年に火事で全焼した。

モルモン書と初期の教義と聖約の一部を翻訳する作業を通じて培われた絆のほかに、ジョセフ・スミスと、筆記者のオリバー・カウドリは、近くのサスケハナ川の岸に赴き、互いにバプテスマを施し、天使となって現れたバプテスマのヨハネからアロン神権を受けた。

50年前に171号線とサスケハナ川の間に建造された青銅製の大きな記念碑は、旧スミス家があった位置とその近くのサスケハナ川で起こった歴史的な事柄を象徴している。

2011年1月 5日 (水)

笑う門には福来る

Photo by Mieko Takahashi110103_054512

あけましておめでとうございます。

新しい年を迎えるのは良いものですね。それまでの日常にひとつの区切りが付きます。ぴんと張りつめた寒気のもと,居住まいを正し,来し方,行く末に思いをめぐらすのもよいものです。
今年は全国的に大雪の大みそか・正月を迎えられた地域も多いですね。もちろん,交通の混乱で帰省や物流関係者など大変な思いをされた方もいらっしゃるのでしょうが,情緒的には雪の正月というのはよいものです。雪下ろしに苦労されている雪国の方には怒られそうですが……




ええと,実はこのエントリーは正月のことを書いているのではありません。
上のは,”関係各方面に気を遣って書いている感” がにじみ出ている文章のサンプルとして書きました。
公に発信する文章は誰が読むか分からないから,なるべく破綻がないように,いろいろな立場の方からクレームが寄せられないように……などと考えて書くと,とかく官僚の作文のような,そつはないけれどつまらないものになりがちです。

リアホナのローカルページはどうでしょう?

ローカルページは毎号,自国語ニュース委員会の4人の委員と,地域会長会の1人の校閲を経ます。そうして承認を受けて初めて印刷に回せるのです。ですから編集者は,こんなことを書いたらどう思われるだろう,教会機関誌としての品位と尊厳に欠けていないか,とか,この表現は過激じゃないか,とかついつい自主規制してしまうのです。

それでも,ロンドンの原ビショップからいただいた愉快なお便り(2010年1月号ローカル8-9頁)を記事にする際,写真入りワード指導者名簿画像のキャプション(説明文)に小さく,「若い男性会長会第一顧問にご注目」と書いておきました。何せこの第一顧問の写真,ご覧の通りなものですから……

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削除の指示が来るかな? と思っていたら,一人の委員の方からこんな指示を頂きました。

「この説明文ではどの写真か分かりづらいから,矢印とかで示したらどうだろう」

……速攻,矢印を記入させていただきましたよ,ええ。(委員会もなかなか粋じゃあございやせんか!)

日本人はユーモアのセンスがないと言われます。舌禍事件で辞職した閣僚が何人もいるように,公的な場でちょっと冗談を言うと,不謹慎のそしりを受けることもあります。国民性としては,「日本人なのになぜ冗談を言うのか?」とのイギリスでのご指摘はそう的を外れたものでもないでしょう。
一方,来日する欧米人の中央幹部や指導者のお話には,なかなか活字にはならないのですが,ユーモアのセンスあふれるものが多いです。あちらでのユーモアの定義は,「にもかかわらず笑うこと」。人生の現実が過酷だからこそ,ユーモアを潤滑油に精神のバランスを取ろうとするのだとか。

1月号ローカル3頁右段の,中央日曜学校会長会第二顧問リチャードソン兄弟のユーモアあふれるお話は,大阪北ステークセンターに集った聖徒たちに大受けでした。でも記事になると,「友人に仕掛けた楽しいいたずらについておもしろおかしく話して会場をわかせた」とスルーしてしまうことになるのです。ジョークというのはその場限りの一回性のものですから,ライブの雰囲気が伝わらない文章上では誤解されたり,そもそもジョークとして成立しないことも多いのです。
総大会の説教でも中央幹部は時折ジョークを言います。リアホナの大会号に載る公式な文章ではカットされることも多いので,直接,味わいたい方は是非,衛星放送かネットでご視聴ください。

先の委員の方は,「ローカルは深刻な記事が多いけど,もうちょっと明るさがほしいね」とも言われていました。
そういうわけで,世相では明るい話題の少ない昨今ですが,2011年のローカルは,「にもかかわらず笑」えるような楽しい誌面にしたいなあと希望しております。

どうか読者の皆様,今年一年もまたごひいきに,よろしくお願い申し上げます。

2010年12月28日 (火)

見えましたか?

47104クリスマスが終わりました。
ほんの数日前までの色鮮やかな賑わいはあっという間に姿を消して,
町も人々も何もなかったかのようにお正月の準備に入っています。

みなさんはどのようなクリスマスを過ごされましたか?
キリストを思い起こす心温まるできごとがあったでしょうか?
イエス・キリストの姿を見ることはできましたか?

クリスマスの少し前の時期になりますが,福岡神殿で素敵な出来事がありました。

その日,ある一人の姉妹が亡くなったお母さんの身代わりの儀式を受けることになっていました。
到着が少し遅れるという連絡が彼女から入り,奉仕者たちはすぐに儀式ができるよう準備をして待ちました。彼女は道に迷ってしまい,1時間以上遅れて神殿にたどり着きました。
そのうえ,受けるつもりだったバプテスマが予定した時間に行われないことを知らされました。バプテスマを受けられなければその先の儀式も受けることができません。
遅れて到着した上に儀式が受けられないと知った姉妹は当惑し混乱しました。
その様子を見た奉仕者の誰もが気の毒に思いましたが,儀式の予定がないのですからどうすることもできません。

その時,神殿会長がこのように言いました。
「いますぐ神権者を集めてバプテスマを行いましょう。」

静かに,速やかに準備は行われ,この日受けるつもりにしていた儀式の全てが行われました。

『神の御父の来臨についての栄えあるメッセージを聞いているわたしたち,主の御名を受け,主の弟子として主の道を歩むと誓約しているわたしたちは,心と思いをしっかりと開き,実際に主を見なければなりません。』

この出来事に主の姿を見ることができました。
イエス・キリストの愛をすぐそばで感じることができました。

クリスマスは終わりましたが,わたしたちが見ようとすればいつでもキリストを見ることができるに違いありません。
そしてわたしたち自身もキリストが見えるような行いをきっとすることができることでしょう。

2010年12月12日 (日)

アルマ・O・テーラー長老の孫が亡くなる

Taylor1901年に末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師として来日したアルマ・O・テーラー長老。ヒーバー・J・グラント長老らと共に、最初の四人の宣教師の一人として来日しました。

そのテーラー長老の孫にあたるケビン・L・テーラー兄弟が2010年12月5日、心臓発作のために亡くなりました。61歳でした。

遡ること約100年前の12月、祖父にあたるアルマ・O・テーラー長老は、皇室へモルモン書を届ける準備をしていました。帰国したテーラー長老はビジネスと教会の責任に奔走し、多忙な日々を送りました。結婚したものの、テーラー長老は子供に恵まれず、40歳のとき、義理の兄弟に生まれた子供を養子として迎えました。

孫にあたるケビン・L・テーラー兄弟と同じように、奇遇にも、アルマ・O・テーラー長老も心臓発作で亡くなっています。

葬儀は12月11日(土)に行われます。

2010年11月26日 (金)

「聖地」と呼ばれるのはちょっと・・・。

Newsweek_2 11月25日発売のニューズウィーク(Newsweek 12/1号)に興味ある記事が掲載されていました。題して、「次のシリコンバレーはモルモン教の聖地」。

2008年のリーマンショック以降、景気は回復の兆しを見せず、アメリカ中の各州が企業誘致に苦戦している中、ユタ州だけが企業誘致に成功しており、過去五年間にわたって3.5%の経済成長が維持されているというものです。

記事には、eベイ、ツイッター、オラクル、ディズニー、アドビシステムズなどの企業名が並び、過去一年で40社もの企業誘致を成功させていると書かれています。

記事では、モルモン教徒が多く住む土地柄をあげ、宗教色が強い風土は企業にとって決してマイナスにならず、むしろプラス要素のなっていると綴っています。また、帰還宣教師の能力も高く評価されています。

多くのモルモン教徒が青年時代に2年間、外国で布教活動を行なっている。他州がユタ州の成功を見習おうとしても、この点はちょっとまねできない」と筆者は語っています。確かにそうですね・・・・。

しかし、タイトルにある 「聖地」という表現は、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の会員には、しっくりこない表現なのではないでしょうか。「ソルトレークシティーは、私たちの聖地と思われているのか・・・。」そう思いながら記事を読んでしまいました。

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2010年11月23日 (火)

御霊を感じる。

Httpwwwldschurchjpimagesstoriesliah 今年の大会号から全てのページの写真がカラーになりましたね。
「なんだか豪華になったな。」と思いながらお話を読んでいて69ページの男の子の写真に目が留まりました。何かを見ているのでしょうか,おでこに手を当てて穏やかに微笑んでいます。
この写真に温かいものを感じて,全ページカラーになったことに改めて気がつきました。
そして最初から一枚一枚写真を見ていきました。


どの写真からも喜びがあふれています。
カメラを向けられていることに気がついていない素敵な写真がたくさん掲載されています。
幼子が遊んでいる写真もあれば、車椅子に乗った男性のすばらしい笑顔の写真もあります。
並んで歩く父親と息子・老人の祈り・おばあさん姉妹の笑顔・・・。
同じ場所の歯が同じ本数抜けている男の子たちの写真には「ふふふ」と笑いが漏れてしまいました。


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ページをめくるごとに御霊を感じ,主への愛や信頼がふつふつと湧き上がってきました。
そして国は違っても,言葉や年齢・性別・立場が違っても,わたしたちはひとつなんだと感じました。

 
Httpwwwldschurchjpimagesstoriesli_2



                             

リアホナは文章だけでなく,写真からも御霊を発しています。忙しくてどうしても時間が取れないときにもリアホナを手にとってぱっと開いてみてください。
きっとあなたに必要な何かが目に入ってきます。

ご覧になって心に残った写真はありますか?









2010年10月29日 (金)

目を凝らせばそこに祝福

2010111_2

 10月号に引き続き,11月号大会号もローカルページがなく,2か月にわたって読者の皆様とご無沙汰しておりますローカルの編集室です。ローカルページはなくともリアホナは粛々と発行されていきます。10月の初めに行われた総大会は,衛星放送で全世界に届けられて後,すぐに映像と音声が教会公式ウェブサイトにアップロードされました。今回リニューアルされた総大会サイトでは,日本語でも全部会,全話者のお話が動画と音声ファイルでご視聴頂けます。ダウンロードして携帯音楽プレーヤーに入れ,通勤通学時にお聞きいただくこともできます。
 思えば半年前,初めて総大会の日本語版動画が公開されて感激しました。今回も当たり前のようにアップされています。わずか1年前には疑似日本語版動画を四苦八苦して作っていたというのに!
 わが家の先日の家庭の夕べでは,皆でパソコンを囲み,土曜のいちばん最初のモンソン大管長のお話を改めて聞きました。大管長は若い兄弟姉妹,そしてシニア世代の会員たちに向け,伝道に赴くよう励ましましたね。ウチの生意気盛りの子供たちがそれをどう受け止めたのか,はなはだ心もとないところではありますが,それはさておき……便利な時代になったものです。

 日曜午前の部会でモンソン大管長は,感謝ということについて話されました。いわく……「イギリスの作家オルダス・ハクスリーはこう書いています。『あって当たり前だと思うことにかけては,たいていの人はほとんど無限の能力がある。』」
 衛星放送も,ウェブサイトも,「あって当たり前」だと思わないよう,最初に接したときの感動を忘れないようにしたいと自戒しています。その方が心を若く保てる気もしますしね!

 出会うものすべてが新鮮だった10代のころを思い出します。それから幾年月……いろいろな「初めて」がありました。30年前,アジアで「初めて」建設された東京神殿。神殿型の貯金箱に献金するコインを貯めたものです。そして「初めて」手にした新訳の末日聖典。ヒンクレー大管長により「初めて」発表された小神殿建設。「初めて」目にした福岡神殿のモロナイ像。教会に巨大なパラボラアンテナが設置され,「初めて」衛星放送の電波が飛び込んで来た日。それまで簡素なデザインだった教会堂建築が,標準建築プログラムによって「初めて」大きく変わった頃……そしてもちろん,子供たちに初めてこの世で会った日も。──思い起こせば,今,「当たり前」のように思っていることにも,それぞれ新鮮な出会いと感激がありました。
 モンソン大管長のおっしゃるように,世の中に「当たり前」なんてない。そう思うと,この世はなんと不思議と奇跡と祝福に満ちて輝いていることでしょう。

 そしてこれからも,まだまだ祝福は降り注ぎます。もうすぐ建設される札幌神殿。オンライン版日本語聖典公開をはじめ,どんどん充実していく教会のウェブサイト。たゆまず進んで行く主の業。わくわくしますね。これを感謝しないでいられましょうか。
 さて,リアホナ11月総大会特集号は,11月1日に全国発送されます。PDF版はすでに公開されています。主の祝福をどうぞお楽しみください!

2010年10月25日 (月)

神殿の傍らで。

Cimg6283_2 10月23日に行われたローマ神殿の鍬入れ式の動画を見て,

http://www.youtube.com/watch?v=rYvS8SHpzME

2000年に奉献された福岡神殿の鍬入れ式およびオープンハウスまでの出来事を収録したビデオを思い出しました。わたしはこのビデオが大好きで時々見ています。みなさんに紹介しようと思い探したのですがどこに消えたのかちょっと見当たりません。とても感動するビデオなのでお伝えできないのが残念です。ご存知の方紹介してください。

 

このビデオには,オープンハウスに向けてさまざまな責任を果たす多くの会員の懸命に努力する様子が収められています。

 音楽担当の兄弟は聞いたことのないあまりに難解な楽譜を見て絶句してしまいます。その楽譜を読み解き,各地に点在する聖歌隊をとりまとめ練習を重ねるのですが,大管長の前で歌うのですから背負ったプレッシャーは相当なものだったに違いありません。オープンハウスで指揮を執る彼の流す涙はとても素敵です。

 交通関係を担当した兄弟たちの努力にも頭が下がりました。
福岡神殿は裏が植物園と動物園のある山で表にはそのための駐車場があり,神殿の前の道路はロータリーになっています。福岡神殿はミニ神殿なので駐車場が広くありません。そこに各地から人々が集まってくるのです。日に日をついで駐車場を探す兄弟たちはどれほど自分の時間を犠牲にしたことでしょう。場所の他にも交通事情などの問題があって気苦労が耐えなかったことがビデオから伝わってきて感謝せずにはいられません。また主がすべてご存知で,その努力を最高の形で報いてくださることに大きな感動を覚えました。

 

 ビデオの中で責任のないひとりの兄弟が紹介されています。彼はオープンハウスの3日間ずっと外にいて,神殿に入る人のために道路の落ち葉を掃き続けました。誰も来ていない時間に神殿にやってきて掃き,人々が参入する間は手を後ろに組んでその様子を静かにじっと見ていました。わたしは彼の姿に

『聖きを主に捧ぐ』

という神殿に掲げられている言葉を思い出しました。


 どこの神殿にもこういった誰にも知られていないお話がたくさんあるのでしょう。きっと福岡神殿にももっと多くの美しい出来事があるに違いありません。そう思うと神殿へ気持ちがさらに高まります。
 次は札幌神殿ですね。北海道・東北地方のみなさん,神殿の傍らで行われる素敵な出来事を見つけたらぜひ紹介してください。そっと行われる信仰のしるしほどわたしたちを奮い立たせるものはありません。楽しみにお待ちしています。


 



 

2010年10月 7日 (木)

帰還宣教師のタッチダウン!

Young_310月2日(土)に開催された末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)半期総大会。最初の話者はトーマス・S・モンソン大管長でした。歓迎のメッセージを込めたお話しは、宣教師としての奉仕に焦点があてられていました。

過去の預言者たちは繰り返し伝道へ出ることを教えてきたと青少年に向けて説きました。今までも若い男性に伝道の準備をするように勧めることはありましたが、今回興味深く感じたのは、若い女性に向けても宣教師になって奉仕することを勧めていたことです。

「若い女性皆さん、皆さんには専任宣教師として奉仕するという若い男性と同じ神権者の義務はありませんが、宣教師として価値ある貢献ができます。皆さんの奉仕を歓迎します」とモンソン大管長は語りかけました。

また、宣教師の準備をする若い人々へ向けて、聖典の知識を深めることはもちろんのこと、健康に留意して体を強めることも提唱しています。ユタ州プロボにあるMTC(宣教師訓練センター)では、福音を学ぶだけではなく、健康を保つプログラムにも力が入れられています。

そんなとき、一つのニュース記事が目に留まりました。現在、アメリカではフットボールシーズン真っ盛りで、大学のアメリカンフットボールも、プロのNFL も、佳境に突入しています。スポーツ関連の記事にはアメフトのことばかり掲載されていますが、活躍する選手のプロフィールの中に「モルモン教会の宣教師として二年間の伝道活動に従事した経験を持つ」というものをよく見かけます。

日本人にはそれほど馴染みのないスポーツですが、アメリカの若者にはヒーローとなる選手も多いのではないでしょうか。憧れのスター選手が帰還宣教師であるということは、教会員の青少年に少なからず勇気を与えてくれるものなのかもしれません。彼らがタッチダウンして腕を高く突き上げている姿を見ますと、二年間というブランクにも関わらず、その人生の祝福された期間とともに、何かに打ち勝ったような印象与えているようにさえ感じます。

さて、調べてみますと、NFLに意外にもモルモン教徒の選手が多いことに驚かされます。どの分野であれ、才能を発揮して活躍する教会員には、清々しさを感じてしまいます。

●NFLで活躍する末日聖徒の選手たち●

C.J. Ah You(Rams)

John Beck(Redskins)

Travis Bright(Cowboys)

Austin Collie(Colts)

Chris Cooley(Redskins)

Stewart Bradley(Eagles)

John Denney(Dolphins)

Ryan Denney(Texans)

Jonathan Fanene(Bengals)

J.D. Folsom(Bears)

David Hale(Ravens)

Max Hall(Cardinals)

Todd Heap(Ravens)

Eric Heitmann(49ers)

Chris Hoke(Steelers)

Bryan Kehl(Rams)

Brett Keisel(Steelers)

Maake Kemoeatu(Redskins)

Paul Kruger(Ravens)

Spencer Larsen(Broncos)

Deuce Lutui(Cardinals)

Marcus Mailei(Saints)

Brandon Manumaleuna(Bears)

Garrett Mills(Eagles)

Fili Moala(Colts)

Tony Moeaki(Chiefs)

Shawn Murphy(Panthers)

Haloti Ngata(Ravens)

David Nixon(Texans)

Dennis Pitta(Ravens)

Brady Poppinga(Packers)

Sione Pouha(Jets)

Dallas Reynolds(Eagles)

Naufahu Tahi(Vikings)

Manase Tonga,(Raiders)

Tim Toone(Lions)

Fenuki Tupou(Eagles)

Harvey Unga(Bears)

Fui Vakapuna(Bengals)

Eric Weddle(Chargers)


●ちなみに、掲載写真は宣教師を訪問した49ersの元クォーターバック、スティーブ・ヤング兄弟。

2010年10月 5日 (火)

モルモン教徒の聖書・キリスト教の知識に関する調査結果

640x360ワシントンDCに本部を置くシンクタンク「The Pew Research Center」は、クリスチャンとしての知識、聖書、またその他の宗教的な知識について、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)の会員が、すべての宗教団体の中で最も高いスコアであったと調査結果を発表しました。

調査は、アメリカ全土から抽出された3,412人の個人を対象として5月から6月に行われました。調査によれば、聖書とキリスト教についての知識では、キリスト教団体の中で、末日聖徒(モルモン教徒)が最も高い点数を示しました。

末日聖徒イエス・キリスト教会はモルモン教会とも呼ばれるため、「聖書を使うのか」との質問がよくされますが、教会では聖書を聖典として扱うと同時に、モルモン書も聖典として扱っています。安息日には日曜学校が開かれ、キリストの福音をベースにした教えについて学び、意見を分かち合う機会もあります。

また、調査結果は、モルモン教徒がアメリカ合衆国憲法と合衆国政府について、他の宗教団体の会員よりも知識を持っていることを示しています。最近、十二使徒のダリン・H・オークス長老が、アメリカ合衆国憲法について深い洞察ある話しをした経緯も影響しているかもしれません。

モルモン教徒の中では、世界の他宗教についての知識が一般的に高い数値を示しているのも興味ある特徴です。それに対して、末日聖徒イエス・キリスト教会に対する正しい認知度は、アメリカ国内でもまだまだ高くありません。アメリカ人10人のうち4人が、モルモン教会が設立されたのは1800年以降であると知っています(44%)。モルモン書には、古代アメリカ大陸にイエス・キリストが訪れた記録が記載されていると知っている人は44%。教会の設立者がジョセフ・スミスだと知っている人は51%です。

末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)では、教会員に聖典を学び、宗教的な知識を増し加えるようにと奨励しています。教会では、安息日には礼拝行事に加え、聖典の知識を学ぶクラスが二つ設定されています。今年、日曜学校では旧約聖書に焦点をあてて学んでいます。

15歳から18歳の青少年は、セミナリーと呼ばれるプログラムを通じて、毎日福音を学んでいます。大学生の年齢にある若者は、インスティチュートと呼ばれるクラスで、引き続きキリストの福音を学びます。また、多くの若者は宣教師として学業や仕事から離れて二年間の奉仕活動に従事します。この期間を通じて、さらに福音の知識を深めることができます。教会員は個人の聖典学習や家族の聖典学習も奨励されており、子供の頃から聖典に親しむ習慣が築き上げられています。さらに、教会のサイトでは、聖典を学ぶためのアイデアや資料も多く掲載されているので、学ぶ環境も整っています。

このような理由から、シンクタンクによる調査結果として、モルモン教徒が聖書に親しんでいることや、潜在的な知識が豊かなのは想像できます。しかし、これはあくまでもアメリカ国内での調査結果です。

さあ、皆さん自身はいかがでしょうか?
クリスチャンとしての知識は十分に持ち合わせていますか?

この機会に個人や家族の聖典勉強についてもう一度振り返ってみてはいかがでしょうか。

参考記事:
The Washington Post

USA Today

Deseret News

The New York Times

The Dallas Morning News

Associated Press

トラブルがあっても「すべては善し」

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2日(土)と3日(日)には、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)第180回半期総大会が開催されました。今週末には衛星放送による総大会へ出席することができますが、既にインターネットで土曜日や日曜日の部会を視聴した方もいらっしゃると思います。

土曜日の午前の部会は、日本時間で日曜日の午前1時からインターネットで配信されました。インターネットのライブ放送とは思えないほどの美しい画質と音響には感動しました。タバナクルクワイヤーの歌も終わり、司会者が壇上に立ち・・・。あれ?っと思われた方多いですよね。「パソコンの設定かボリューム設定が間違っているかな・・・」と思った方、多いと思います。

最初の話者のモンソン大管長の音声が流れていませんでした。日本語の通訳の音声は流れていましたが、英語の音声が流れていませんでした。また、歌声はきれいに流れるのですが、話者の話しが聞こえないというトラブルでした。

状況を伝えたくても電話する場所も分かりませんし、真夜中ですし・・・。

今まででしたら、「仕方ない・・・」で終わりでした。そうだ!こういうときこそ、Facebookツイッターを活用してみるか!と思い。さっそく、検索して、アメリカの教会本部のオーディオ部門の担当者を見つけました。

見れば、Facebook のコメント欄には、既に続々と状況を伝えるメッセージが掲載されていました。私が入力する必要もなく、アメリカ人からのコメ ントが掲載されていました。「クレーム」と呼べるような手厳しいコメントはなく、「映像だけが流れているのに気づいていますか?」とか「音声が聞こえ ませんがトラブルでしょうか?」という程度のものです。それに対して担当者から「私たちも状況を把握しています。対処していますので、もうしばら くお待ちください」というメッセージが即座に掲載されていました。

既にアメリカの放映担当者が知っているのならば、こちらはとやかく言わず、ただ待つしかありません。先方の対応がわからないまま、やきもきするのではなく、日本語の吹き替えを映像に重ねながら待ちました。すると、数分後には音声が回復し、問題なくカンファレンスの放送が始まりました。

インターネットや IT の便利さを何度か記事に書きましたが、全世界にライブ放映された総大会でのトラブルに、このような形でFacebook やツイッターが活躍してくれるとは思いませんでした。

ライブ放送を見ながら更なる可能性を感じてしまう私でした。
よ〜し、次に何かトラブルがあったら、一番にコメントを書くぞ!
そう思いながら気合いを込めて総大会を見ていましたが、何も問題は発生することなくカンファレンスは粛々と続いたのでした・・・。

2010年9月30日 (木)

今週末は180回目の総大会です

Kiev_temple10月号の「リアホナ」は神殿の特集号になっています。かつては、プライマリーや青少年のクラスで教師が神殿の写真を見せながら、どこの神殿か生徒にクイズを出すことがよくありましたが、これだけ神殿が多くなると、なかなか覚えるのは難しいですね・・・。東京神殿が建設された1980年頃には、世界中に神殿は約20しかありませんでした。教会が組織されて150年間という時間をかけて、世界中に約20の神殿が建てられている状況でした。

しかし、その後30年間に多くの神殿が世界中に建設され、現在は134の神殿で儀式が執り行われています。 建設中の神殿は7、建設予定の発表がされている神殿は11です。今では、総大会で新たな神殿建設が発表されるのが恒例行事のようになっている観もあります。

今週末には、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)第180回目の半期総大会がユタ州ソルトレークシティーで開催されます。どのような大会になるのかとても楽しみですね。そこで、前回の4月の総大会からの過去6ヶ月間を振り返って、神殿に関するニュースを少しまとめてみました。

5月から8月の間に4つの神殿が奉献されました。

5月2日にはカナダのブリティッシュコロンビア州でバンクーバー神殿の奉献式が行われました。バンクーバーでは冬季オリンピックが開催された直後ということもあり、地元の会員にとっては大きなイベントが続くこととなりました。

5月23日には、モンソン大管長はアリゾナ州のギラバレー神殿を奉献しました。

6月13日にモンソン大管長は、フィリピンのセブで神殿を奉献しました。フィリピンに福音が伝えられてから約半世紀が経過しています。神殿では周囲に住む約20万人の教会員のために儀式が行われます。1984年に奉献されたマニラ神殿は、別の約40万人の教会員のために儀式を執行しています。

8月29日に教会の中央幹部が神殿の奉献式を行うために、ウクライナのキエフを訪れました。旧ソ連を含め、東ヨーロッパへ建設された最初の神殿になりました。キエフに建立された神殿は、アルメニア、モルドバ、ロシア、ベラルーシを始めとする9カ国に在住する教会員のために稼働します。定礎式に臨んだトーマス S. モンソン大管長は「今は皆さんの神殿です」と語った後、「しかし、数分後には、私たちはこの神殿を主に捧げることになります」と話されました。

キエフ神殿の建設は、ウクライナでの伝道活動の急速な発展を象徴しています。1990年10月に最初の宣教師が到着しました。1991年のソ連崩壊の結果、樹立された新生ウクライナ国家によって、正式に教会は認可され、1992年にはウクライナ・キエフ伝道部が組織されました。そして、1998に神殿建設が発表されました。実際に神殿が建設されるまでには年月を要しましたが、アメリカ以外で、福音が伝えられてから神殿建設の発表に至るまで、8年という短期間でなされた国はありません。

また、7月31日には、ユタ州ブリガムシティーで、新たな神殿の鍬入れ式が行われました。鍬入れ式は、ブリガムシティー出身であり、十二使徒定員会会長のボイド・K・パッカー長老によって管理されました。

神殿の建設の歴史からも教会の発展を感じ取ることができます。以下のサイトには、現在の神殿のリストが掲載されていますので参考にしてください。http://www.ldschurchtemples.com/temples/

2010年9月20日 (月)

扶助協会集会を活用して,教え,霊的に鼓舞する。

58978_494216277845_777427845_719426  みなさんのユニットではどのような扶助協会の集会が行われていますか?

 世界中の扶助協会でその地域・ユニットにあった集会を開催しています。福音の原則に立ち返る集会・災害などに即座に対応できるように備えを万全にする集会・料理や裁縫を学ぶ集会・夫に先立たれた姉妹を助け強める集会・・・他にもたくさんの集会が行われています。


 先週の土曜日,熊本ステークで『エコ』をテーマに文化祭(ファッションショー)が行われました。作品に使われた材料は長い間眠っていた布や,着なくなった着物や洋服をリフォームしたもの。写真の女の子たちはお母さんの作ったパジャマを身につけ,共布で作ってもらったクッションを手に舞台を歩きました。

この集会に参加するために,それぞれのユニットで姉妹たちが集まり,技術を学んだり,教えあったりして,作品を作りました。子どもたちはお母さんが作ってくれるのを楽しみに待ちました。ユースの女の子はお母さんたちと一緒に自分でミシンをかけました。

 

扶助協会の目的は『女性を永遠の命の祝福に備える』ことです。
主が設立されました。
そこがカルチャーセンターと大きく違います。
扶助協会のさまざまな集会を通してわたしたちは楽しみながら,
技術を学ぶだけでなく主の御元に帰る方法を学ぶことができます。



 

2010年9月16日 (木)

あなたも天使になれる

リアホナ9月号48ページに掲載されている「真理は勝つ」という記事は,8月号のローカル 6ページに掲載された渡壁正明兄弟の経験とよく似ています。こんな話です。(詳しくは本誌記事をお読みください)


イギリスのオリバー・メイオール兄弟は,末日聖徒の家庭に生まれましたが,14歳のころから教会に足を運ばなくなりました。しかし,この世的な生活では心を十分に満たすことができず,深夜に助けを祈り求めます。祈った後で考え,耳を傾けましたが何も起こりません。何週間も続けた後,オリバーは祈り方を変えました。主が答えを与えてくださったら宣教師となって仕えると約束して祈ったのです。その結果,オリバーは心に強烈で平安に満ちた何かを感じて涙を流しました。

そのころオリバーは教会員でないガールフレンドのケリーとデートを始めました。オリバーは主との約束を果たすべく伝道に出る準備をします。オリバーの変化に気付いたケリーは福音に興味を持ち,バプテスマを受けました。

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ケリーを残して伝道に出るべきかどうか悩んだオリバーは,ヒース原野という緑豊かな丘陵地帯へ行き,ある丘の頂上で熱心に祈り耳を傾けます。しかし,何も感じませんでした。

(◀オリバー兄弟が祈ったと思われるイギリス,マンチェスター郊外,サドルワースのダブストーン貯水池を望む丘 写真:イアン・ロバーツ)

帰り道でオリバーは,地面に石を並べて書かれた『真理は勝つ』という文字を目にします。不思議に思いましたが,ただそれだけでした。しかし帰宅して母親にそのことを話すと彼女はあっさりと言います。「それが祈りの答えよ。」

実はその文字は,二人の宣教師が準備の日に,このヒース原野を旅した際,石文字を残したいとの思いに駆られて書いたものだと後に判明します。オリバーは広大なヒース原野の,小道が四方に広がっている地形の中からピンポイントで,宣教師がメッセージを残した地点に行き着いたのでした。


さて,宣教師が原野に残した石文字はほんとうに主の答えだったのでしょうか。
なぜオリバーには,渡壁兄弟が受けたような声で答えが与えられなかったのでしょうか。
皆さんはどう思われますか?

わたしは,この宣教師たちは自分でも知らないうちに天使となって,オリバー兄弟に祝福を携えて行ったのだと思います。

昔,どこかで聞いたたとえ話にこういうものがあります。(オリジナルと違っているかもしれませんが,あくまで寓話ですのでご容赦を……オリジナルをご存じの方,コメント欄にご一報を!)


ある教会堂が洪水に見舞われ,濁流が押し寄せます。教会を守って踏みとどまったビショップのもとに,教会員が避難するようにと呼びに来ます。ビショップは,いや,主は必ず救ってくださるから,と教会に残ります。

やがて浸水し,半分まで水に浸かった教会堂に,ボートに乗った救助隊が来ます。ボートに乗るようにとの勧めをビショップは,いや,祈りは必ず聞き届けられるから大丈夫,と断ります。

洪水はますます激しくなり,屋根まで水が達します。ビショップが屋根に這い上がっていると,ハイパーレスキューのヘリコプターが来てレスキュー隊員の腕につかまるように言います。しかしビショップは,信仰があれば主が救ってくださいますから,とそれを断ります。

やがて濁流は教会全体を飲み込み,ビショップは溺れて死んでしまいました。

このビショップは霊界へ行き,主と対面してこう話します。「わたしは最後まで主を信じていたのに,どうして救ってくださらなかったのですか。」すると主はこうお答えになります。「わたしは3度まで救いの手をあなたに差し伸べたのに,どうして拒んだのか。」


地域七十人の西原里志長老は,あるクラスでこう話されました。「祝福とは神様から授けられる恵みです。皆さんを取り巻いている人,もの,情報,すべてがそうです。」

若い男性たちは,アロン神権が「天使の働きの鍵」(教義と聖約13:1)を持つことを学んだことでしょう。
あなたが誰かを助けるように霊感を受けたとき,あなたも天使になれるのです。

2010年9月11日 (土)

信じ切って生きる。

Img_6562 水戸の内田姉妹は重い病気をわずらった方とは思えない元気と勢いのある方でした。お話していて『どうしてこんなに潔くて強いんだろう?』と思いました。病気のこと,パッドのこと,才能・家族・仕事のことなどの話をうかがっていてハッとする言葉を耳にしました。

「祈りに制限はない」

 内田姉妹は結婚する時にも大きな壁があったそうです。周りの厳しい目の中でモルモンの家族として失敗は許されないと感じた姉妹は「霊の強い子どもたちを送ってください」と祈り,主はそれに答えてくださったと言われました。経済的に困窮した時も同じように主に願い求め助けを受けたそうです。
お話の全体から内田姉妹が
「主は祈りを聞いてくださる。」
「主におできにならないことはない。」
そう心の底から信じているのが手に取るように感じられました。

『わたしにそんな強い気持ちがあるだろうか?』

取材中にもかかわらず,ふっと自分自身を振り返えって過去の自分・今の自分を見つめてみました。・・・ちょっと不足気味・・・みたい。
主が全能のお方であり,いつもわたしたちの祈りに耳を傾けてくださっていることは知っていますが,
いろいろ理由をつけて「聞き入れてもらえないかも・・・」とか「ふさわしくないかも・・・」などと消極的になっているわたしを見つけました。
そしてその態度は決して謙遜からきているものではないということを感じました。
主におおいに感謝しながら必要としているものを包み隠さずお話しし,
それにどう答えてくださっても快く受け入れることこそ謙遜であると内田姉妹の姿を見ながら思いました。

芸術的な才能も,大きな発明も,今生きていることさえも,全て主の力によるものだと心から感謝する内田姉妹。
主を信じきって前を向いて生きるその姿に憧れを感じ,
『よし!わたしも!!』と思いながらお別れしました。

2010年9月 9日 (木)

大統領と預言者

41qqrnsdqsl_sl500_aa300_8月の参議院予算委員会で、民主党の谷岡郁子議員の質問に対して、菅直人首相が、ユタ州を訪れたときの経験を引用しながら答えました。既にいろいろな場所で、映像が引用されていますのでご存知の方も多いと思います。

菅直人首相は、モルモン教会の学生が二年間を奉仕活動に費やしていると語り、バランスのとれた学生生活や人格形成の大切さについて話しました。

日本の首相や各界で活躍するオピニオンリーダーが、教会の本当の姿について理解してくれるのは嬉しいことですし、会員たちの気持ちを高めるものになります。

9月号の「リアホナ」では、日本語の「モルモン書」の出版100周年を記念して作られた特別装丁版が、全国のオピニオンリーダーへ贈呈された記事も掲載されていました。今まで各地の広報ディレクターを中心に、長い時間をかけながら、教会とオピニオンリーダとの良好な関係作りが構築されてきた結果だと思います。

アメリカでも広報活動は活発で、多くの活動が教会員ではないオピニオンリーダとの協力によって行われています。

そういえば、数年前に「Presidents and Prophets」という本が出版されました。少し厚い本なのですが、歴代のアメリカ合衆国大統領と、末日聖徒イエス・キリスト教会の歴代の大管長との交流の写真と記事が掲載されているものです。

歴代の大統領が大管長の執務室を訪れて話している写真や、ホワイトハウスへ招かれた大管長が合衆国大統領へ歓迎されている写真など、驚かされるような写真と記事が満載です。DVD映像もあります。

また、教会の歴史記録部にも、合衆国大統領と教会指導者が交流する映像も多く残されています。以下の映像は、ジョン・F・ケネディー大統領がソルトレークシティーを訪れたときのものです。

こちらの映像も必見です。

ケネディー大統領の乗った車が、テンプルスクウェアの南側の道をゆっくりと走り、ホテル・ユタ(現在のジョセフ・スミス・メモリアル・ビルディング)の方向へと向かっています。

タバナクルでスピーチしたケネディー大統領は、モルモンの開拓者の功績を讃え、マッケイ大管長と親しく交流しました。

菅直人首相が、モルモン教会の若者についてコメントしたことは嬉しいことですが、アメリカの教会歴史を見たときに、「まだまだ、日本の教会もこれからだな」と思わずにはいられませんでした。

どちらにしても、教会員が持っている才能、技術、情熱、智恵を社会へ還元し、人々に奉仕する結果として、主は様々な機会を設けてくださるのだと感じています。

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2010年9月 7日 (火)

夫婦宣教師に必要なもの

13850最近、地域七十人による、夫婦宣教師に備えるファイアサイドに出席しました。
「夫婦宣教師? まだまだ、そんな年齢ではないし・・・。まずは子供たちを伝道へ送り出すのが先だから・・・」と考えながらの出席でした。

私たちが夫婦宣教師として働く機会は、若い人たちにとっては遠い先のお話のように聞こえるかもしれません。しかし、ファイアサイドに出席して感じたのは、「今、携わっている仕事が、将来の召しの準備につながるかもしれない」ということでした。

どうしても私たちは霊的な準備ばかりに目がいってしまい、それは、私たちの日常の仕事や興味とは別次元のもののように感じてしまうことがあります。しかし、夫婦宣教師に求められているのは、若い宣教師のように自転車に乗って福音を伝えることだけではありません。

「リアホナ」9月号では、「熟年の宣教師たち」というテーマの記事が掲載されています。あるご夫婦の経験が紹介されていますが、とても希望のもてる素晴らしいお話でした。

教会の夫婦宣教師に関する情報が掲載されているサイトを見ますと、世界中の様々な場所で、私たちの技術や知識が必要とされていると感じます。

施設管理のために修繕の技術が求められているところもあれば、インスティチュートの教師となって福音を教会員へ教えることが求められているところもあります。農業技術の指導、英語の指導、音楽、広報活動、人道援助、映像制作、人的管理、教会指導者への訓練、家族歴史、警備、神殿、ポリネシアセンター、会計等々、求められている分野は多岐に渡ります。

ソルトレークのテンプルスクウェアやノーヴー神殿の花壇作りなど、趣味の分野が活かされそうなものまであります。

つまり、私たちは自分が持っている才能や、仕事で培われた経験や知識をそのまま夫婦宣教師として活用することができるのです。そのように考えますと、夫婦宣教師への準備は、子育てを終えたり、子供が伝道へ旅立つのを待つ必要はないということです。子供を育てながら、毎日の仕事をしながら、一生懸命に働くことで、それそのものが準備へつながっていきます。

いつ伝道へ行くかということよりも、「私の才能や仕事の知識をどのように活かせるか」と考えてはいかがでしょうか。視点を変えれば、仕事そのものに更なる情熱を見いだせるかもしれません。

ちなみに私は、趣味のアウトドアを活かして、アメリカの教会のキャンプ施設の遊歩道管理の奉仕を考えています。霊的準備よりも、むしろ体力を整えなくては・・・。

2010年9月 2日 (木)

次の世代を養い育てる責任

Sannar_family衝撃的な事件でした。
先週の日曜日、8月29日に、カリフォルニア州のバイセリアの教会堂でビショップが射殺されました。

三時間プログラムの後に、面接をしていたサナー ビショップに一人の男性が面会を求めてきました。ビショップのオフィスの外でしばらく待った男性は、面接が終わったサナー ビショップに招かれ、ビショップのオフィスへ入りました。そして、その直後に、サナー兄弟へ向けて発砲したのです。

サナー ビショップは死亡し、犯人は教会堂を去りました。
犯人は警察に追われ、銃撃戦の後、射殺されました。

英語のサイトにはこの事件に関するニュースが多く報じられています。
Facebookやツイッターでは、サナー ビショップの残された家族への寄付に関するサイトも立ち上がっています。
サナー夫妻には6人の子供がおり、全員が男の子です。
一番小さい子供は、まだ生後数ヶ月です。

この6人の子供たちに、それぞれ1万ドルづつ、合計6万ドルを贈るサイトでは、開設後すぐに寄付金が集まり始まりました。

以下がそのサイトです。
http://pledgie.com/campaigns/12975

既に数日で寄付金は目標額の90%近くになっています。

「リアホナ」9月号の家庭訪問メッセージのテーマは、「次の世代を養い育てる責任」というものです。このテーマから多くは霊的なものを思い浮かべてしまいますが、今回の事件から、「残された6人の子供たちはどうなるのだろうか?」と考えてしまいました。「残されたサナー姉妹だけで育て上げることができるのだろうか」と考えてしまいました。そのとき、教会や会員は何ができるのだろうかと・・・。

とりあえず、Facebookの記事をコピーして、知り合いへ送ることから始めました。わずかばかりでも、インターネットを通じて寄付もできます。

衝撃的な事件は様々なことを教え、考えさせてくれました。
インターネットの情報伝達の速さと、ネットを介した支援の迅速性にも改めて驚かされました。

残されたサナー姉妹と6人の子供たちの心が癒されることを願っています。

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2010年8月30日 (月)

わたしたちとひまわり

 

Cimg5894  最近のひまわりは一つ一つの花が小さいですね。わたしが子どものころのひまわりはまっすぐに伸びた太い幹に大きな花が一輪咲く種類のものでした。背の低い庭木や雑草の中で,太陽に向かって堂々と立つ姿は夏そのものでした。それに比べて最近のひまわりは,1輪では全然目立ちません。枝も華奢で細く,いくつにも枝分かれしていて1本からいくつもの花が咲いています。そのせいでしょう,群生させているところがほとんどです。ひとつの花では弱い印象でも,濃い緑の葉のあちらこちらから鮮やかな黄色い花がいくつも見える様子は,やはり『夏だな』と思わせる雰囲気と存在感がありますね。

 この小さいひまわりの群生を見ていてあることに気がつきました。近寄って観察するとそれぞれの花に特徴があるのです。花芯が花びらよりも少なくて小さいもの,反対に花びらよりもずっと大きいもの。ひときわ大きく咲いている花もあれば,葉の影で背も低くひっそりと小粒の花を咲かせているものもあります。太陽に向かって元気に顔を上げている花の隣で首を垂れて地面を見ている花もありました。早々と成長している花・これから大きくなりそうな花・まだ蕾で開くにはもうちょっと時間がかかりそうな花。

みんな全然違うのに,まとまったひとつの『ひまわり』。

不思議ですね。

「わたしたちってこの『ひまわり』にちょっと似ているかも・・・」群生しているひまわりを見ながらふと思いました。

わたしたちもみなそれぞれ違っています。
姿かたちも心も考え方も受け止め方も。
でも,きっとそれは問題じゃないんです。

ちょっと距離のある『あなた』と『わたし』の上に『救い主』がいらっしゃるならば,わたしたちは必ずひとまとまりのきれいな『ひまわり』になれます。

2010年8月28日 (土)

霊界はすぐそばにある

 9月号ローカルページには,大阪の堀井紀久夫兄弟の不思議な経験が掲載されています。堀井兄弟は5歳のとき,その前年に亡くなった祖父と自宅で対面したといいます。この記事をレイアウトしていて,どこかでよく似た話を耳にしたな,と思いました。記憶を頼りにあちこち探して見つかったのが,1893年にユタ州で起きたこの出来事です。堀井兄弟の体験談といろいろ共通するところがあります。

(以下に引用します。写真は晩年のフレデリック・W・ハースト兄弟)
Fwhurst

 フレデリック・ウィリアム・ハーストが初めて末日聖徒の宣教師が回復された福音を宣べ伝えているのを聞いたのは,オーストラリアの金鉱で働いているときだった。彼は兄弟のチャールズとともに1854年1月にバプテスマを受けた。フレデリックは家族のほかの人たちをも改宗させようと努力したが,彼らはフレデリックを拒み,彼が教える真理を拒否した。

 フレッドがソルトレーク・シティーに移民したのは教会に入ってから4年後のことだった。彼は数か国で宣教師として忠実に働いた。またソルトレーク神殿で塗装の仕事もしている。

 フレッドは晩年の日記にこのような記録を残した。「1893年の3月1日ごろのことだった。ふと気がつくと食卓に残っていたのはわたしだけだった。家族は全員眠りに就いていた。テーブルを前にして座っていると,驚いたことに兄のアルフレッドが入って来て,テーブルの向こう側に座り,ほほえんでいるではないか。わたしは兄に言った(兄はごく普通の感じだった)。『いつユタに着いたんですか。』

 すると兄は言った。『わたしは今,霊界から来たんだ。おまえが見ているのはわたしの体ではない。わたしの体は墓の中だ。おまえが伝道に出ていたときに,福音についてたくさんのことを話してくれた。それから,来世のこと,霊界が地球の生活と同じように現実に存在し,実体のあるものだと言っていたね。わたしは信じられなかったが,死んで霊界へ行ってみたらおまえの言ったことがほんとうだって分かった。わたしはモルモンの集会に出席したよ。』彼は手を上げ,親しみを込めて言った。『わたしは心から主イエス・キリストを信じるよ。わたしは信仰,悔い改め,罪の赦しのためのバプテスマを信じているよ。でも,わたしは信じる段階から先に行けないんだ。わたしのために神殿で儀式を行ってくれるのを待っているよ。……いつもそばで見ているからね。……わたしたちは皆,おまえがこの偉大な業の鍵を握っていると考えているからね。地上でこの教会にいながら,関心を向けることもなく何もしていない親戚のために嘆き悲しんでいる霊が非常にたくさんいることをおまえに知らせたいのだよ。』」(Diary of Frederick William Hurst,サミュエル・H・ハーストとアイダ・ハースト編〔1961年〕204)
(『教義と聖約および教会歴史──福音の教義クラス教師用手引き』p.224−225 強調付加)

 ちなみにフレデリックは,テーブルを挟んで兄アルフレッドと対話している間に,3度ほどこう問いかけています。「アルフレッド兄さん,あなたの姿,話し声や仕草は完璧に自然で,あなたが死んでいるかもしれないとはとても思えない。」するとその都度,兄はこう返事しました。「お前が見ているのはわたしの霊に過ぎないのだよ。わたしの肉体は墓の中にある。」

 兄アルフレッドは,さらにたくさんの大切なこと(その内容はフレデリックの記録には詳らかにされていません)を語った後,立ち上がり,先ほど入って来たその同じドアを通って去っていきました。(そのすぐ後,フレデリックはさらに素晴しい機会に恵まれるのですが,それは彼の記録(英語)をご覧になってください。)

 堀井兄弟も,インタビューアーに語った以上の会話を,そのときにお祖父さまと交わされたのだそうです。けれどもそれは神聖にして個人的なことなので,堀井兄弟は大切に心にしまって置かれているそうです。

 わたしは30年ほど前に,家族で祖母の臨終の床を見守りました。祖母は,「なぜこんな苦しい思いをしなくちゃいけないの」と洩らし,かなり辛そうにして亡くなりました。
 葬儀も終わってしばらくした頃,わたしは夢を見ました。祖母が明るい場所で屈託なく笑っている夢でした。ああ,今はおばあちゃんは幸せなんだな,と思って安心したのを憶えています。

 ──霊界はこの現世と,意外と近い場所にある,とどこかで聞いた気がします。

2010年8月25日 (水)

リアホナ9月号を本日発送しました

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リアホナ2010年9月号が本日できあがり,全国の読者の皆様に向けて発送されました。
PDF版も,日本語版教会公式ウェブサイトの福音ライブラリの項にすでにアップロードされています。本誌ローカルページとも,お届けが待ちきれない方はこちらをご覧ください。

さて,今後の予告編を少々。
これから2か月にわたってローカルページはお休みをいただきます。
来月の10月号は,保存版の神殿特集号となります。特別編集のため,ローカルページは掲載されません。
再来月の11月号は,第180回半期総大会特集号で,いつものようにローカルページは掲載されません。
次にお目にかかるのは,12月号となります。

12月号ローカルページでは,「末日聖徒のシルバーライフ」と題して特集記事を企画しています。

日本人の平均寿命が男性80歳女性86歳という昨今,仕事をリタイアした後には「第三の人生」が待っています。その人生をどう充実した時期『最盛期』とすることができるのか──もちろん夫婦伝道や奉仕宣教師,神殿奉仕,家族歴史といったこれまでよく知られた場もあります。しかしそれだけではなく,身体が衰えたら,伝道に出ることが出来ない年齢になったら,神様の元へ帰るための人生の仕上げの時期をどう生きるのか。そうした本質的なテーマへと踏み込んでいきます。超高齢社会の到来という世の中の趨勢も踏まえ,そこに末日聖徒ならではの価値観と視点を交えて考察します。

こうしたテーマについて,ご意見や,取り上げるべき事例や情報などお持ちの方がおられましたら,是非このブログまでコメントをお寄せください。じっくり取材に取り組めるこのせっかくの機会を生かして,実のある企画となるよう準備してまいります。

皆様のご支援とご協力をいただけますよう,よろしくお願い致します。

2010年8月20日 (金)

結び目をいくつ知っていますか?

Rope
夏休みも後半になりましたが、まだまだこれからキャンプやアウトドア活動に出かける人も多いと思います。教会では青少年のキャンプがちょうど終わった時期かもしれません。

夏休みを利用して自然の中へ出かけるのは楽しいのですが、残念なことに、多くの事故も報道されています。沢登りをしていた学生がテントごと鉄砲水に流された事故や、山を熟知していると思われていた報道関係者の事故、自然を甘く見た水難事故など、毎日のようにニュースで報じられています。

誰もが事故に遭おうと思って出かける訳ではありませんが、そのほとんどが、小さな注意で防げたかもしれないと専門家は言います。

「リアホナ」8月号には「結び目を作ってしっかりつかまっていなさい」という記事が掲載されています。ロープの先に作られた結び目のイメージカットが、ページの中央に垂れ下がるように表示されています。

インターネットで調べてみますと、ロープの結び方は約3,000種類以上もあるそうです。用途も様々で、実は私たちの日常生活には「結び目」はかなり密着したものだと知ることができました。その中でも、最低知っておいた方が良い結び方が5〜10種類ほど紹介されています。ロープの結び方を紹介した書籍にも、ほぼ同じようなものが紹介されています。

つまり、その最低の結び方さえ知っていれば、ある程度の状況には対応できるのだそうです。ボーイスカウトを経験した人は、そのほとんどをマスターしているのではないでしょうか。

さて、「リアホナ」に掲載されている記事ですが、恵まれない環境で子供時代を過ごした少女が、宣教師と出会って改宗し、自信のないままに教会の中でいろいろな責任を果たしていった経過が描かれています。働きながら高校に通った彼女は、自分のことを「ロープの端にぶらさがっている」と何度も感じていました。

それでも、そのロープの端から落ちなかったのは、尊敬する指導者から「結び目」を作るアドバイスを受けていたからでした。

考えてみれば、私たちの生活に訪れる問題は複雑です。しかし、問題に立ち向かうとき、覚えておかなければならない原則(結び目)は、それほど数多くはありません。3,000種類の対処法となる結び目を覚えるのは不可能です。最低必要ないくつかの「結び目」さえ作れるならば、それで乗りこえられることもあるのです。

私たちの生活には、覚えるべきどんな「結び目」があるのでしょうか。
猛暑の中、ロープとパソコンの画面を見比べながら、いろいろな「結び目」について考えています。

2010年8月 9日 (月)

祈りの答えを頂くスキル

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ふたたび,8月号ローカル掲載の,渡壁正明兄弟の証にまつわる話題です。

渡壁兄弟は伝道に出る前に,これからどうすべきか問うために,霜降山という小高い山の頂で祈りをささげます。このときの渡壁兄弟の祈りが,啓示を受けるときの原則にきちんと従っていることに感銘を受けました。

「心の中で深く考えて……キリストの名によって永遠の父なる神に問うように,あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら誠心誠意問うならば,神は……聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。」(モロナイ10:3−4)

十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老によると,この聖句は次のような段階に分けられます。

●心の中に深く考える
●キリストの名によって,キリストを信じながら父なる神に問う
●「誠心(sincere heart)」つまり本心から,正直な,心からなる願いをもって問う
●「誠意(real intent)」現実的(real)な目的(intent)をもって,つまり,答えを受けたらそれに従って具体的に行動すると約束しながら問う……
→神は聖霊の力によってこたえられる

渡壁兄弟はこう祈りました。

●前もってよく考え,自分はこうしたい(伝道より結婚に集中したい)と思うがどうだろうか,と具体的に主に提示している
●もちろん,キリストを信じながらキリストの名によって天の御父に問うている
●祈りに集中できる場所で心から祈っている
●どのような答えであろうと,「主の答えに完全に従う」と心に決めて祈っている

そして祈った後,(5分ほど)沈黙のうちに答えを待ちました。

→答えが来る『今すぐ伝道に出ろ』

その後のことは,記事にはあっさりと描写してありますが,詳しくはこうだったそうです。

「答えを聞くために5分間沈黙の時間でした。その時間私の心はドキドキしていました。そして答えが来ました。<今すぐ伝道に出ろ>でした。」

「むしろ伝道には行きたくない気持ちの方が強かった」という渡壁兄弟は,

「……受け入れることが難しかったので、また主に大胆に尋ねました。なぜ私が必要ですか? 
主は私にはっきり言いました。<あなたより若い人々を助ける必要がある。だから今すぐ伝道に出ろ>
またすぐに祈り、3回(目も)すべて同じ祈りの答えでした。
一生忘れることのできない経験でした。 
神様、イエス・キリスト、聖霊の愛を分かったとき、私の価値と望みと愛を知ったとき、私はその場でたくさん眼から涙を流しました、暖かさと何かに包まれているようでした。
私は車に乗って家に戻りました。」

渡壁兄弟は,当初の自分の望みとは別の答えが来ましたが,「主の答えに完全に従う」という約束を誠意をもって果たしました。すなわち,困難を越え,すべてを捨てて,<今すぐ>伝道に出て行ったのです。
答えに従う,つまり行動(Action) することは,啓示を受けるための鍵だとベドナー長老は強調していました。

「個人の啓示……を受けてそれに従うという能力は,この人生で身につけられる技術の中で最も大切なものです」(中央扶助協会会長 ジュリー・B・ベック『リアホナ』2010年5月号,10)
啓示を受けて従う」ことが誰もが身につけられるスキル(技術)だとすれば,そのための方法があるはずです。それは初めて自転車に乗る人が転びながら練習するように,そう簡単ではないかもしれません。けれども,一部の天才や預言者だけでなく,練習すれば誰にもできるのだという教えはわたしたちを励ましてはくれないでしょうか。伝道に赴くことは,そのスキル習得の最短距離かもしれません。

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