2011年7月号ローカルページに,小林久子姉妹の手記を掲載しました。誌面が限られるため抜粋版となりましたが,この手記を受け取ったとき,編集者として,できれば読者の皆様に全文を読んでいただきたいと思いました。現場を目の当たりにした方にしか書けない臨場感あふれる筆致で,被災地の現実がいきいきと描き出されています。
ネットというメディアに,長文がなじまないことは重々承知しています。しかし,誌面のスペースに制約がないこともネットの大きな利点です。リアホナ誌面で抜粋版を読まれて共感をおぼえられた方は,こちらの全長版もご一読くださると幸いです。
なお,本誌にも記しましたが,小林姉妹はこのボランティア活動を通じて,一切,写真撮影をしていません。添えられた写真はすべて別取材で撮影されたイメージで,本文と直接の関係はありません。
傾聴ボランティアに参加して~私が見聞きし、体験したこと~
藤沢ステーク湘南ワード 小林久子
それでもあなたは行きますか 2011年4月7日(木)
その時、私は新宿で23時59分発仙台行きの高速バスの到着を待っていた。
スーツケースにもたれて道路わきで立っていると、突然両足が上下し、地面が弾むような感覚がおきた。一瞬地震かなと思ったが、誰も慌てるふうもない。いつもするように何かぶらさがっているものはないかと周りを見渡すと、歩道のフェンス横にある標識のポールが大きく鞭打っている。やはり地震らしかった。
少ししてバスが到着し、私は荷物を預けて乗り込んだ。トイレのない4列の夜行バスだ。少しでも体を休めておきたい。さっそくアイマスクをつけて眠ろうとしたが、携帯の話し声が耳につく。なぜ真夜中に多くの人が携帯で話しているのか、私はまだ何も気づいていなかった。
ふと「震度6強」という声が漏れ聞こえた。緊迫した空気。東日本大震災後の最大の余震だ。メールが入った。「大丈夫ですか。今宮城で大きな地震がありました。」隣りで座っていた若い女性は実家が岩手だという。余震がおさまりかけたので、今夜ようやく実家に向かうところだったのだ。青ざめた表情で携帯の地震情報にかじりついている。すでに実家とは連絡が取れないらしい。そんな状況でも、彼女は親切にも私に地震の情報を教えてくれた。
携帯には夫からの着信記録があった。夫は私の安全と健康を心配してか、すぐに首を縦には振らなかった。それでも、「苦しんでいる人を見ながら見ないふりはできない。小林家を代表して行ってくるから!」の言葉に、いつものように黙って送り出してくれたのだった。
この時になってはじめて、被災地へ災害ボランティアに行くということの重み、危険性が心に迫ってきた。皆が避難しようとしている所に、私はこれから敢えて飛び込んで行こうとしているのだ。バスの出発は遅れており、まだ引き返す猶予はある。私は自分の心に問うた。「それでもあなたは行きますか?」
「行きます!」私は自分に返した。「何が起ころうと引き受ける。その中で最善を尽くそう。」被災地に行くとはこういう意味なのだ。短く祈った。気が引き締まる。少し遅れてバスは出発した。「途中通行止め等の状況によっては、一般道路を使いますのでご了承ください。」アナウンスの後も、携帯の薄青い明かりが暗くなった車内をしばらく照らしていた。
このことはリーダーに言わないでください
4月8日(金)宮城県石巻市 根岸集会所へ 物資運搬、炊き出し、傾聴ボランティア

バスは2度サービスエリアに立ち寄り、6時過ぎには無事仙台に到着した。
仙台は昨夜の地震の影響で停電になっていて、駅前は閑散としていた。駅周辺を見るかぎり、建物の大きな損壊はみあたらない。駅に着いたら教会に電話をする予定だったが、携帯がつながらない。震災の時と同じだ。それでも重いスーツケースを押しながらなんとかタクシーをつかまえると、30分後には教会災害対策本部がある上杉ワードに到着した。

上杉ワードにはボランティアの兄弟たちが寝泊りしていた。私は姉妹たちが集合する8時半ごろまで奥の一室で待機するよう言われ、持参したパンで朝食を済ませて皆の到着を待った。教会の各部屋はかなりの量の支援物資が所狭しと積み上げられ、仕分けられていた。善意の宝庫だ。
この日、私たちは二手に分かれて行動した。私は石巻市の根岸集会場へ行くよう割り当てを受けた。80人分のカレーの炊き出しをし、時間があれば傾聴ボランティアを行なう。途中で新鮮な野菜を買って、生野菜も提供したいとの計画だった。物資を積み込んで2台の車に分乗すると、私たちは9時ごろ教会を出発した。
停電の影響で信号は止まり、道路は大渋滞だった。新鮮な野菜を届けたいとの思いもむなしく、すべての店舗は散乱した商品の後片づけや安全確認のために閉店していた。やむを得ない。東へ向かうにつれ、次第に瓦が崩れ落ち、ガラスが砕け散り、傾いてしまった家々、ブルーシートで覆われた屋根が増えてくる。

石巻市に入ると、様相は一変した。道路わきに積み上げられたがれきが延々と続く。砂埃が舞い立っているのか、閉め切った車中にいても咳が出る。海岸線に出ると、何度もテレビで見た光景が飛び込んできた。少しの骨格を残しただけの空洞の連続は、そこをものすごい破壊力を持った津波がぶちぬいていったことを示していた。数え切れない車がありえない場所に、ありえない角度でおさまり、巨大な石油タンクが横たわっている。異臭が鼻をつく。流されなかった家では片づけが行なわれていて、使い物にならなくなった廃棄物が道のわきにうず高く積まれている。車幅ぎりぎりのところまでがれきが迫り、そこをくねくねと進むと根岸集会所が見えてきた。
すぐ近くにも小学校の避難所があるのだが、ここには80名近くの人が避難していた。ライフラインが復旧しておらず、60歳くらいの女性が全体のまとめ役をしていた。物資を運びこもうとすると、彼女は開口一番、「生野菜はありますか。」と尋ねた。長澤兄弟はこの日なんとしても生野菜を届けたいと言っていた。水やパン、カップめんは自衛隊からも届けられるようになっていたが、人々の体は野菜を渇望していたのだ。
彼女は落胆の表情で肩を落とした。
避難所の中には数名しかいなかった。日中は多くの人が自宅に戻って片づけをしているのだ。
炊き出しの前に少しの時間があったので、私たちは中に入らせてもらうことにした。「一人はこちらに来てください。難しいおばあさんが一人いますので、話し相手になってあげてください。」世話役の女性に手招きされ、私は奥の部屋に入った。
その女性はみゆきさん(仮名)と言った。68歳で白髪、年齢以上に見える。足を投げ出してぼうっと座っている。手を取って挨拶をし、「お体の具合はいかがですか。」と尋ねると、みゆきさんは「木綿のパンツがほしいけれど、化繊のものしかない。もっとゆったりとしたものを履きたい。」と食い込んだ下着をちらっと見せた。そういえば私の母も、ゆったりしたのがいい、大きめがいいといつも言っている。
私は脈を取り、血圧を測って「大丈夫ですよ」と告げた。「実は、毎朝のおにぎりが固くてね・・」彼女はぽつりぽつり自分の病気について話し出した。「本当は私、固いものを食べてはいけないんです。」彼女は食道静脈瘤、胆石症があり、最近ではおにぎりを食べると胃が痛くなり、下痢をするらしい。「今度おかゆのレトルトを持ってきましょうか。あるかどうか分かりませんがパンツも探してきましょうか。」こう提案すると、みゆきさんは首を振った。「このことはリーダーに言わないで下さい。ここにいられなくなってしまいます。何も持ってこないでください。わかってしまいますから。我慢できますから。ここではみんなと同じものを食べて、同じように生活しなければいけないんです。贅沢はだめなんです。聞いてくれただけで満足です。」
みゆきさんは廊下で転んだことも皆に隠していた。狭い避難所に何十人もの毛布や衣類があるため、お年寄りはつまずきやすい。トイレだって不便だし、日中じっとしているものだから筋力も低下する一方だ。役割もないので、昼間はじっと皆の帰りを待っているだけだ。「自分は何の役にも立っていないから。」彼女は何度もそう繰り返した。せめて一脚の椅子があれば、股関節の手術をしている彼女の立ち座りはどんなに楽だろうか。その椅子もいらないと言う。これではすぐに歩けなくなり、寝たきりになってしまう。
今の私にできることは、このほんのひと時の間、彼女に心の安らぎを感じてもらうだけだった。全身のマッサージをし、一緒に歩く練習をし、この方に幸いがあるようにと祈った。
この避難所というコミュニティには規律があり、他の人が立ち入りできない部分も多々ある。他のボランティアにも相談したが、何もしない方が賢明との意見だった。世話役をしている人も、訓練されてなったわけでもなく、体力の限界を感じながら荷を負って奔走している同じ被災者なのだ。元気いっぱいに振舞っている彼女の方こそ、心のケアが必要なのではないかと思った。
200人分のカレーに添えられたコールスロー
その後、私たちは炊き出しの準備にかかった。80人分だと聞いていたが、まとめ役の人は「200人分のつもりだったんです。」と憮然と答えた。避難所で寝泊りしていない人達も食べに来られるらしいのだ。
そんなやり取りをしている時、女性たちの視線を感じて私は振り返った。「早くやるならやってよ」という雰囲気だ。避難所での食事は、朝と夕の2食だけだ。停電のため夕食は4時から始まる。明るいうちに早く片付けたいのに、疲れて帰って来ても何も進んでいないではないかという不満からだろう。
私たちは彼女たちにも手伝いをお願いした。大鍋に山盛りの小玉ねぎの皮むきだ。手際よく下準備しながら、私たちに言い聞かせるように、「ちゃっちゃっとやらなきゃね。」「とろとろしてちゃあ、だめなんだよ。」の言葉が飛び交う。「は~い。もっとちゃっちゃっとしなくっちゃあ。うわっ、早い!」と返すと、「そうだよ、こんな風にやるんだよ。どんどんやって!」と来る。こんな形で苛立ちやストレスを笑って受け止める。
「ある野菜だけでもいいから、コールスローを作ってあげたい。」西野姉妹たちはそのように願い、準備に取り掛かった。私は200人分のカレーを時間までに必ず完成させようと思った。
地元の男性が火をおこしてくれた。がれきの木材はたくさんあるものだから、火はぼうぼうだ。もう一つはガスボンベを使っての調理。河本兄弟と二人で、3つの大鍋いっぱいの具だくさんカレーを超特急で作った。途中から皆が他の用でいなくなったために、私一人で火の番をしながらの炊き出しとなったが、若い女性の責任やキャンプでの経験がこんな形で生かされることに、不思議な思いがした。
ご飯は地元の女性たちが炊いてくれた。おこげがいっぱいの固めのご飯にカレーをかけると、西野姉妹がコールスローを横に添えてくれた。野菜が添えられていることで食の豊かさや温かみが増す。何はともあれ、求められる時間内に、求められているものを準備できてよかった。
助けの必要な方をご存知ですか
4月9日(土)長町ワード、上杉ワード
先に宅急便で送った私の荷物は、誤って救援物資として仕分けられていた。1日待って伝票を確認してもらい、思い出せる範囲で水と食糧を返していただいたものの、他にも箱にしのばせておいたいくつかのものが見つからない。絵本、紙風船、高齢者のために作った運動のしおり、口の体操の資料、健康チェック表、お年寄りが好きな歌の歌集。スーツケースにはしゃぼん玉、ちょっとした薬やハンドクリーム、お尻拭き、ゴム手袋、前日に借りた紙芝居も幾つか入れておいた。
使わなくてもそのまま持ち帰ってもいい。でも、「あれを持ってきておけば良かった」と後悔することのないように、行く直前まであれこれ考えて、入れておいたのだ。
私は今、老人ホームで看護師をしている。老人看護の経験は浅いが、看護師になって30年以上になる。子育てで長く仕事を離れていたが、これまで私の目も手も心もずっと看護師だったように思う。大病をして最も苦しんでいた時も、看護を受けながら、どうしたらもっと良い看護師になれるかを私は学んできた。
テレビで避難所の報道があるたびに、お年寄りが健康上抱えている問題、近い将来予想される状況を考えると胸が痛んだ。避難所の固い床、狭いスペースでほとんど寝るか座ったままの生活、誰とも話さない毎日、炭水化物に偏った食事、少ない水分摂取や粉塵の影響、行き届かない口腔衛生と体の保清、屋外にある和式の仮設トイレ、すでに抱えている病気の放置、役割や生きがい・家族や住み慣れた環境を喪失したことの影響等々。
今老人看護に従事しており、昨年は介護予防運動指導員の資格も取得した。子供も巣立った。若くはないし、体力もあまりないが、私はまだまだ健康だ。職場の看護師仲間も喜んで勤務を交替し、送り出してくれる。教会で災害対策本部も設置された。私は行かなければならない、という思いに突き動かされた。少しでもお年寄りの傍らにいて、心のケアができればと心から願っての参加だった。
幸いにも、資料も絵本も見つかった。月曜日から私はどこに行くにもこれらを詰め込んだ重い手提げを持ち歩くことにした。

私たちは上杉ワードと長町ワードに分かれて総大会の衛星放送を視聴した。私は長町ワードだ。大きな余震があったばかりだし、自宅でも視聴できるためか、出席した人はわずかだった。教会の玄関をくぐると、正面の壁を走る大きな亀裂が目に飛び込んできた。トイレのガラスも割れ、2階の一部は立ち入り禁止になっていた。私たちは礼拝堂に点在して座り、指導者が語る言葉を聞いた。
今日出発する前に、私たちはまとめ役である戸浪姉妹から新しく訪問できる人を開拓するようにとの要請を受けていた。私はこれにこたえようと決意していた。しかし、ぱらぱらと僅かな人の出席。午前中の放送で帰られる人もいるだろう。
午前の放送を終え、2階の台所へ皆と昼食に向かう途中、一人の女性が急いで帰ろうとしているのを見かけた。駆け寄り、声をかけると、彼女は立ち止まってくれた。彼女の名前は谷川姉妹(仮名)。短く自己紹介し合ってから、私は彼女に「助けの必要な方をご存知ですか」と単刀直入に尋ねた。「います。」すぐに返事が返って来たことに、私は正直驚いた。
谷川姉妹は親友である岡田家族(仮名)の名前を挙げ、連絡先を教えてくれた。また教会をお休みされている会員で、被災されながらも懸命に被災者の世話をしている姉妹をぜひ訪問してほしいと、住所と電話番号を教えてくれた。その隣人で家を流された藤田さんにも助けが必要らしい。難しいかもしれないけれども、できれば避難指定区域に住むパートメンバー安達姉妹の所へも訪問してほしいとのことだった。谷川姉妹の連絡先も教えてもらって別れた時には、もう午後の衛星放送が始まろうとしていた。
午後の部会も人は少なかった。私はここにいる人皆が、そのまますぐに帰ってしまわないようにと願った。
大会終了後私たちは全員に声をかけ、残っているほとんどすべての人にアロマオイルでのハンドマッサージをしながら傾聴させてもらうことができた。
私はまだハンドマッサージのやり方を教わっていなかった。だから、隣りでやっているのを横目で見ながらの自己流からのスタートだ。YSAの兄弟は将来の進路について悩みを打ち明けてきた。震災後の重い空気の中で、些細な悩みは言い出せない状況があったのかもしれない。部屋中で笑顔と深刻な話が交じり合った。岡田兄弟は午後の部会に出席されていた。私はまとめ役でもあり専門職である戸浪姉妹に谷川姉妹からの情報を伝え、岡田兄弟に詳細を傾聴してもらうようお願いした。

夕方、私たちは電車で上杉ワードに戻った。「何名か礼拝堂に残っていますから、ぜひ声をかけてさしあげてください。」と促され、私たちは礼拝堂をのぞいた。10人くらいの人が大会の余韻に浸り、静かに話していた。
どこに行こうかと見渡した時、一番奥で話している60歳くらいの女性にしようとの思いが湧いた。近寄り、「少しでも楽になりますので、手のマッサージをさせてくださいますか。」と声をかけると、彼女は快く応じてくれた。気さくで明るいその女性は、「ああ、いいにおい。一瞬でも安らぐわねえ。」と言い、被災して住めなくなった自宅が半壊か全壊かという話を先ほどまでしていたことを打ち明けてくれた。
話を聞くうちに、この女性が岡田兄弟の奥さん、谷川姉妹の親友の岡田姉妹であることが分かった時には、本当に驚いた。今日は驚いてばかりだ。助けの必要な人の所へ所へと、主が導いて下さっている。召しでもないこのボランティアの働きをも、主が先頭に立っておられることを私は確信し、喜びに満たされた。「今日ご主人にもお会いしました。谷川姉妹にも会って、お話を聞きました。」と言うと、岡田姉妹はとても驚かれていた。
「今度はこの人にもやってあげてちょうだい。家が全部流されたのよ。」岡田姉妹は先ほどまで一緒に話していた女性にもマッサージを勧めてくれた。その姉妹は、家が全壊してやり直せる見込みがないため、山形に引越しするのだと語った。一見、楽しいおばちゃん同士の会話に見えたが、実は大きな被害を受けた者同士にしか交わせない深刻な話し合いだったことが分かり、いかに自分が盲目で御霊のささやきを必要としていることかと痛感した。
訪問する所を開拓するようにとのチャレンジは、心構え、祈りとなって、このような形で答えを受けることができた。「伝道と同じだ」と思った。私たちは求めれば与えられ、たたけば開けてもらえ、捜せば見いだすことができる。一人見出せば、その人がより助けの必要な人を紹介してくれる!
私は大丈夫ですから
4月10日(日)長町ワード
昨日に引き続き、私は長町ワードで衛星放送を視聴し、その前後に傾聴ボランティアを行うという割り当てを受けた。
私は夫婦宣教師アパートに4人で宿泊していた。反省会を終えてアパートに帰ってくると21時を過ぎることが多かった。毎晩、食事や片づけを終えると皆で聖典を読み、聖句について学んだり、その日経験したことを遅くまで話し合った。私は一日の記録を済ませると、翌日の目標を立てる。私の胸には自分のことを顧みずに働いているビショップやRS会長さんたちのマッサージをさせていただきたいとの思いが膨らんでいた。
長町ワードに着くと、昨日お会いした気さくな兄弟に「ビショップはどの方ですか。」と尋ねた。彼は明るく答えた。「ビショップは私です。昨日はありがとうございました。いやあ、楽になりましたよ。」気づかなかった。なんて飾らない、謙遜な方だろう。私は大沢ビショップに「どなたにマッサージをして差し上げればよいか、教えて下さいませんか。」と尋ねた。ビショップは何人かの名前をあげてくれた。彼は午前の部会が終わると、午後の部会までの1時間、その場でアロマオイルでのハンドマッサージをすることを快諾して下さった。
その1時間はまるでシオンだった。紹介してもらった人にマッサージを申し出ると、その人は手を振り、「私は大丈夫ですから、この人にしてあげてください。」ともっと大変な思いをしている人を連れて来る。
そして、その人は「いえいえ、この人から先にして下さい。」とまた別の人を連れてくるのだ。数名のボランティア仲間がフル回転で進めても時間は足らず、ビショップが紹介してくれた人にたどり着くのはなかなかのことだった。
職場で長をされている保育士さんもいた。あの日、彼女は怯える子供たちを死に物狂いで避難させ、今も行方不明となった子供達の家族を捜索していると語った。そして、昨日一人の遺体が見つかったという報告を聞き、彼女はこれから安置所に行くのだと言う。黒い服装の理由はそれだったのだ。言葉に詰まった。
午後の部会が終わった後も、多くの人達が私たちを囲んだ。互いに語れないことも、第三者がいることで話すことができる。私の方がまだ苦しみが小さいからと、悲しみや不安を心にしまい込んでいる人がどれほど多いことか。
米を分かち合った女性
まだ新会員の半澤姉妹は、地震直後の経験をマッサージの間中ずっと話してくれた。3月11日、午後2時46分、震度6弱の地震の後、大津波が町を襲った。彼女の夫は10トンの大型タンクローリーで危険物を運ぶ仕事をしていた。彼は地震のため高速道路の上の橋げたから転がり落ちそうになったところを、どうにか命拾いして真夜中帰ってきた。夫の勤める会社は津波被害があり、壊滅状態となって、多くの人が被災した。夫は彼女に言った。「明日、会社の人に水とおにぎりを持っていってあげたい。」「もちろん、いいよ。」彼女は答え、翌日から台所を懐中電灯で照らしながら土鍋で8合分の米を炊き、おにぎりを作って会社に持って行かせたという。夫は泥だらけになり2時間の道のりを歩いた。毎日毎日、二人でたくさんのおにぎりを握ったが、お米はあっという間になくなり、数日後には2合に満たない米しか残っていない現実に向き合うことになった。
半澤姉妹は米を減らすまいと、土鍋に焦げ付いたご飯を水でふやかしてお粥にして食べた。夫にはそんなことはできないと泣きたい気持ちで祈ると、両親からメールが届いた。過去に両親とのいさかいがあり、絶対両親をゆるせない心が消えないでいた半澤姉妹だった。いさかいの末、家を出て1年半が過ぎていた。「来なくていい。」かたくなな彼女はそう返信した。実は両親の家も津波被害を受けており、大変な時期を過ごしていた。
その1週間後に突然、住所をようやく捜しあてた両親が訪ねてきて、米やお菓子などの食料品を持って来た。彼女はやむなく両親を家に招き入れ、久しぶりに話をした。その時に、彼女の心に奇跡が起こった。心に渦巻いていた憎しみや恨みが嘘のように消えていったのだ。両親に感謝し、愚かだった自分を悔い、「父母を敬う」ことができずにいた苦しみから贖われたことを知ったと言う。
後日、半澤姉妹は夫と共に、夫の実家に向かった。津波で流された車の代わりに義兄の車を貸してもらえることになり、夫の両親は「これくらいしかできないけれど持って行きなさい」と60㎏の米を持たせてくれた。帰り道、彼女は夫に恐る恐る尋ねた。夫は教会員ではなかった。「今日もらったお米の半分を、教会に持って行っちゃあだめ?」夫は少し考えて答えた。「いいよ、あなたに任せるよ。」そう言って、教会まで米を運んでくれたと言う。
半澤姉妹は被災者でありながら惜しまず米を分かち合った。それで、その何百倍もの祝福を得た。彼女は証をまとめたものをコピーして皆に配っていた。私も一部いただき、皆で回し読んだ。
避難所の実態
4月11日(月)宮城県石巻市
住吉中学校体育館(221名収容)・・ヘアカットボランティアと同行し傾聴ボランティア
湊中学校 (55名収容)
法山寺幼稚園 ・・傾聴ボランティア
私たちは現役の美容師さん数名と共に住吉中学校体育館に向かった。同じ黄色いモルモンヘルピングハンズのジャケットを着ていると、連帯感や親近感がわく。美容師さんは体育館のステージの上で場所を設けて、被災者の髪をカットし、私たちは二人一組になって、仕切りのない体育館をねり歩いた。
傾聴の手がかりとして「手のマッサージさせてもらってもいいですか。」と声をかけると、「手だけなの?腰が痛いんだけど。」「足もいいの?」の返事が返ってくる。津波から逃れる時に受けた傷、がれきの撤去や後片付けのため慣れない力仕事で痛めた腰や足、疲労や運動不足、睡眠不足でがちがちになった首や肩。ほとんどの人が体の不調を抱えていた。
「どうですか。体が少し楽になりますよ。」横になっている人にも声をかけると、何人かは「それじゃあ、お願いしようかしら。」と少し辺りをはばかりながら腕をめくる。真向かいに座って、手を拭いてからオイルを延ばす。そして、心をこめて丁寧にマッサージをしていると、たいていは地震や津波から逃れた時の話が彼らの口から出てくる。公平感があるように手だけのマッサージにしようとの方針だが、私は足や腰、肩などに強いニーズを感じた時には、なるべく彼らの望みに応えるようにした。肩こりの人には肩こり体操を一緒にする。腰痛の人には腰痛体操をする。そうすると、周りで見ている人も、体操をやり始めるのだった。私は個々にあった運動のニーズが非常に高いことを感じてきた。運動は心を活気づけ、病気や寝たきりを予防し、痛みを和らげる効果がある。避難所生活の中に、運動プログラムが日課として取り入れられていけばいいなと感じた。
仕切りのない体育館は全体が見渡せる。前の方では70歳を越えると思われる車椅子の女性がぽつんと座っていた。彼女の前には子供たちが学校で使う勉強机が置かれていた。立ち上がろうとしないように、転倒しないための防御だろうか。彼女のもとに行くと、プンと尿臭がした。床ずれができていないだろうか。
マッサージをしている間、彼女は私が着ているジャケットの文字を見て、「イエス・キリストの教会なの?イエス・キリストはなぜ十字架にかかったの?」と尋ねた。「イエス・キリストは私たちのために十字架にかけられました。」と答えるとまた、「どうしてイエス・キリストは私たちのために十字架にかけられたの?」「イエス・キリストは十字架にかけられて、どうして死んでしまったの?」と繰り返した。おそらくは認知症である彼女に説明したとしても、理解には限度があるだろう。また、私たちは傾聴ボランティアとして入ることを認可されたので、宣教はご法度だ。でも、この女性はなぜイエスさまが十字架にかけられて苦しまれたのかと、車椅子の上でずっと問いかけている。私は彼女の言葉で主が苦しまれたことを思い出し、神聖な気持ちになった。
26歳の若い女性がいた。「マッサージはいらないから、話を聞いてください。」と声をかけられ、私は彼女の悩みに耳を傾けた。彼女は心が病んでいて、心療内科の治療を受けていると告げた。「天井を見てください。」と彼女は言った。屋根の中央が何メートルにもわたって大きくひび割れており、余震のたびに恐怖におびえる毎日が続いているらしい。「認知症の母親は好き勝手なことをしてすぐどこかに行くので、いつも見張っていないといけない。大嫌いだ。本当は顔も見たくない。母の笑っている顔を見ると吐き気がする。仕事もしたいけれど、母親を見ていないといけないので、何もできない。」と、先にマッサージを受けて満足げな顔をしている母親に背を向けた。
そうは言っても、彼女は母親を見捨てることなどできず、現実から逃避することはできない。また、毛布を隔てた隣りには、右にも左にも男性がいる。若い女性にとってどれほど不安で苦痛なことだろう。彼女は以前に父親や男性から虐待を受けた経験があり、男性と一緒にいるだけで怖くて仕方がないと言う。彼女は声を低くして、実は夜になるとお酒を飲んで外から帰ってくる人がいて、その人は毎晩大声で怒鳴るので皆がびくびくしているのだと話してくれた。ホームレスの人、気の強いおばさんたちもいて、非常な気兼ねや気遣いで疲れきっていると彼女はこぼした。
15時半を過ぎると、後片付けをしていた人達が戻ってくる。避難されている人の生活やプライバシーを考えて、通常ボランティアの活動は夕方までだ。それから朝までの密室の空間でどのような生活が行なわれているかは、私たちには知り得ないことだ。ただ、普段なら一緒にいるはずのない人達と、仕切りのない一つのフロアで生活することには、どれほどの苦痛が伴うことだろう。
この避難所には、日本看護協会から看護師が派遣されていた。私は挨拶し、どのような活動をしているのかを尋ねた。彼らは、主に床ずれのケアや医療処置の必要な人のケアをしていると言った。1チーム3人で3日ごとに入れ替わるので、なかなか心のケアまではまわらないジレンマがあると打ち明けてくれた。彼らが大事な部分を引き受けてくれているので、私達はこのような活動ができる。ありがたいと思った。

衝撃の湊中学校
湊中学校までの道のりは、これまでのそれとは全く違った。ほとんど人に出会わない。一面のがれきと濡れた地面。灰色の景色。死を匂わせる光景。
湊中学校に到着した時、まさかここは避難所ではないだろうと思った。中学校の入り口には緊急車両が1,2台。入り口付近にはたったの二人。ぬかるんだ地面、大きくひび割れた校舎、真正面に見える中庭には数え切れない車が突っ込まれていた。とにかく人の気配がない。
私たちは傾聴ボランティアとして入れるかどうかを打診するためにここにやってきた。でも、はたしてこの建物に避難している人などいるのだろうか。私は本部の人に交渉する役を買って出て、美香姉妹が私に同行してくれることになった。
車から降りると、まず辺り一面に充満している悪臭にくらくらっとなった。目に飛び込んできたのは、1階の天井からむき出しでぶら下がっているコード類。建物の内外を走る激しいひび割れは、今にも崩れ落ちるのではないかとの恐怖を募らせた。2階くらいまで水没したのだろう、運び込まれた汚泥がずっと跡をひきずっている。私は様々な死骸や汚物をほうふつさせる腐乱臭に吐き気を催し、胃が締め付けられるのを感じた。2階の階段で履物を脱ぐと、私たちは4階まで昇った。臭いは校舎にこもり、むしろ増しているように感じられた。私はたまらずポケットからマスクを取り出した。
4階に本部があると聞いていたが、本部室には誰も人はいなかった。さらに奥に進むと、ようやく「北海道職員」の腕章をつけた一人の男性に会うことができた。派遣されてやってきたその人は、「私にはよく分かりません。」と前置きしてから、「傾聴ボランティアはまだ必要でないと思います。」と答えた。確かに、それ以前の状態であるのが、はっきりと見て取れる。調理室と書かれた教室では、ボランティアと思われる女性が3人立っていた。彼女たちにも動きがなく、全体に時間が止まっている感覚だ。
日赤からのボランティア2名を見かけた時には、ほっとした。彼らは市販の風邪薬などを手渡し、北海道職員の人に衛生面での注意をしていた。「最近ようやく清掃ボランティアが入りましたから。」とのことだったが、帰京後新聞で読んだところによると、トイレは非常に不衛生で、ダンボールにおむつをのせて、その上に用を足している現状が続いているらしい。仮設トイレはもちろんない。このままでは感染症の集団発生は必至だ。
私たちは「不足している物資はありますか」と質問を変えた。最近ようやく給水車が来たが、また間隔が空いてしまうのではないか不安だ、との答えだった。他の避難所と比べて圧倒的に物資が不足しており、すべてがほとんど手付かずにいる状況に、とりあえず私たちは物資を届けることを約束した。
私は被災者がどこに避難されているのか、気づかなかった。「ここじゃない?ここしかないわよね。」美香姉妹は私たちが何度かその前を行き戻りした大きな部屋を指さした。言われてみれば中が薄明るく、そのような気もする。しかし、前後のドアはきっちりと閉ざされ、人の気配はまったくない。動きも物音もない。ここは海岸線に近い非常に危険な区域だ。今にも崩壊しそうな建物、外気の臭いがそのまま充満するこの劣悪な環境の中で数十名の人が暮らしていることは、あまりにも衝撃的な事実だった。
私たちが車に戻ると、待っていた仲間たちは明るく「どうだった?」と尋ねた。時間がかかったために、ボランティアの交渉が成立したと期待していたらしい。私は「傾聴ボランティアなんていう段階ではない。みんな一度見てきて。」と答えた。この現状を見ないで帰るわけにはいかなかった。仲間はぬかるんだ地面に降りて、めいめい偵察に出かけた。
車がゆっくり出発すると、重い空気が垂れ込めて、皆黙りこんでしまった。ここで避難されている人たちはいったいどんな思いで生活されているのだろう。体中を覆った臭いと五感に焼きついた印象が私の心を暗くさせた。とても人が住めると思えないこの場所で、被災されて体も心も傷ついた人が暮らしていることを思うと、いたたまれなかった。
私たちはさらに次の場所へ急いだ。がれきをかき分けて車が通れるだけの道を作るのに、どれほどの時間と労力を要したことだろう。車の高さ以上のがれきはきっちりと角があり、まだ詰まれて真新しいように思われた。がれきのクランクを曲がると、四方はまたがれきの山。積まれたがれきの隙間は思ったより空間があり、目を懲らすと何かを発見しそうで、迷路のような道を間違いなく前進してくれる長澤兄弟の運転を本当にありがたいと思った。無事にここを抜け出したい、皆の共通した思いだった。

津波警報から逃れる
壊滅状態になった所からだいぶ登ったところに、法山寺幼稚園があった。約束の予定時間をはるかにオーバーしていたが、「遅くなっても構いませんのでお願いします。」ということで、この避難所におじゃますることになった。
ちょうど炊き出しを終えた頃のようだった。避難所にはストーブがたかれていて暖かく、和やかな雰囲気がみなぎっていた。
手前の方から順に進んでいくと、眉を剃った若い奥さんに「私にもやってちょうだい。」と奥の方から声をかけられた。自分の家は流されたけれど、昼間は他の人のために泥かきやがれきを取り除くのを手伝っているという。しゃがれた声が疲労のピークを物語っていた。
隣りには彼女のたくましいご主人が食事をしていて、煙草をふかしながら陽気な会話をしていた。彼はその時のことを話し出した。3月11日、地震の後、津波警報が流れると、多くの人が車に乗ってこの高台を目指した。彼も車に乗り込んだが、渋滞がひどかったため他の道を迂回してどうにかここに辿り着くことができた。津波はこの高台のぎりぎりまで押し寄せ、渋滞に巻き込まれた車はほとんど津波に飲み込まれてしまったという。彼はそれまで潜水夫の仕事をしていて、海の底に潜っては、船にひっかかった網を直したりしていた。彼は津波から逃れることができた。でも目の前で溺れていく人達を見て、自らの危険を顧みず水の中に入り、10人の人を助けた、と話してくれた。
私は彼にもハンドマッサージを勧めた。なかなか首を縦に振らなかったが、ついには私の前に座ると、手を差し出した。私は黙ってオイルを塗り、そのたくましい手に感謝をしながらマッサージを行なった。彼も黙っていた。ふと目を上げると、それは穏やかで優しげな表情でくつろいでいる様子が目に入った。目には光るものがあり、私はそれを正視してはいけないと感じた。
私はハンドマッサージをしながら、その人がどのようにしてほしいのかが徐々に分かるようになっていた。こちらが押すと相手も押し返す。どの位の力で、どの角度で、どこをどうしてほしいかを、手と手を通して会話するのだ。その分、沈黙の時間が増えるようになっていく。私の思いが確かに届いているのも感じた。
その時、また地震速報が鳴った。
身構えると、数秒してガタガタと地震が来た。ラジオから震源地は東北地方太平洋沖で、福島で震度6が観測されたとの速報が流れた。ここ石巻沿岸にも津波警報が出され、津波到着は18時20分とのこと。この高台の下は、全域が津波で壊滅状態になった場所だ。私たちは津波到着時間を過ぎてから帰路に着くことに決め、続けてハンドマッサージをしながら傾聴をしていた。
18時20分、津波が到着した時間を確認して、私たちは避難所を後にした。あのたくましいご主人と奥さんはとても若いのに正座をして両手をつき、頭を床につけて何度も「ありがとうございました」を繰り返した。先に訪問した住吉中学校でもそうだった。どの人も正座をして、深々と頭を下げて御礼を言われた。手を合わせようとする人もいた。小さな親切にこれほどの誠意と礼節をもって応えて下さる。何という人達だろう。許されるなら毎日でも来て、どんな仕事でもいいから手伝わせていただきたいと心から願った。
車が出発した時にはあたりはもう真っ暗で、雨が降っていた。高台から降りると、皆の緊張が高まっていくのを感じた。わずかな光が時に見え隠れするが、周囲はほとんど真っ暗で、車も通っていない。私たちはこれから、来る時に通ってきたあのがれきの道を通り抜けなければならなかった。ふと怖くなった。もし先ほどの地震でがれきが崩れて通行止めになっていたり、津波ががれきを押し流していたら、私たちは帰れなくなるかもしれない。暗闇の道なき道は危険で、万一迷ってしまったり、道中で地震や津波に遭おうものなら二次災害は免れない。
がれきの道を抜け、地震で損壊して重量制限のある橋を渡る時、運転していた長澤兄弟が「水かさが増していますね。」と言った。橋から川を見下ろすと、大震災で潮位が増した水面はずいぶん上がり、今日の小さな津波の影響もあるのだろう、水は橋の近くまで迫っていた。その黒の濃淡に不気味さを感じた。
橋を渡ると「逃げ切った」という安堵感が包み、車内でも会話が増えてきた。ラジオは何箇所かのがけ崩れや通行止めを伝えていた。20時30分、ようやく上杉ワードに到着。私達はもっと早く帰ってこなければならない。あの時石巻市には避難勧告が出ていたことを、私たちは後から聞いた。
教会に戻ると分かち合いの時間があった。その後、私たちはアパートに戻り、カップめんの食事を済ませると、反省や感想を話し合った。12時前にまとめ役の戸浪姉妹から電話が入った。明日は全員で湊小学校、6時50分集合。
マスクをつけていなさい
4月12日(火)宮城県石巻市 湊小学校 2~4階 手作りクッキーを持参、傾聴ボランティア
今日は全員で湊小学校を訪問した。昨日の湊中学校への物資の移送は、美香姉妹と兄弟たちに割り当てられた。私は正直、ほっとした。割り当てられればもちろん行ったが、ほっとしてしまった自分を情けなく思った。このことは、神奈川に戻ってからも私を苦しめた。自分が『良きサマリヤ人のたとえ』のレビ人のような気がしてならなかった。
湊小学校のリーダーの男性は避難所全体をよく把握し、管理されており、私たちボランティアを快く受け入れて下さった。彼は心のケアの必要性を認識されていて、できれば全員に傾聴ボランティアをしてほしいとのことで、親切に案内と紹介をして下さった。私達は各階に分かれて行動した。
大きな体育館と違って、小さな教室は幾分ほっとする。最初に入った教室には、ベッドに横になった男性がいた。津波から逃げる時に負傷したのが原因で、ほとんど寝たきりになっている。今回の震災と避難所の生活により、多くの人が寝たきりになるのではないかと、今日も私は危惧した。私はまずこの男性と奥さんに、次いで隅っこでじっと座っている女性、そして横になって目を閉じている女性に声をかけ、マッサージをさせてもらった。彼女は眠っていたわけではない。ほとんどのお年寄りが、誰とも話さず、何もせずに一日を過ごしている。彼らの辛抱強さと礼儀正しさ、柔らかい物腰、謙虚さは世界が驚嘆する通りだ。が、お年寄りからすべてを取り上げたこのままではいけない。一緒に歌ったり、運動したり、遊んだり、皆のために働く役割があったらどんなにいいだろうと思った。
次の教室では、30歳くらいの、顔色の悪い、痩せ細った女性と会った。「胃潰瘍で10日間入院していて、今退院してきたところなんです。」生気のない顔に、無理して作る笑顔が痛々しかった。どこかの子供が彼女にまとわりついていて、トランプ遊びをねだっている。その子供もまた心のケアが必要な状態なのだ。彼女は強度の貧血で倒れ、意識を失って救急車で運ばれた。その時には、通常の半分しか血色素がなかったという。震災と避難所の生活がストレスとなって、胃からじりじりと出血が続いていたようだ。輸血をしても、このような生活を続けていれば、次は吐血、下血という恐ろしい事態を招きかねない。私はマッサージをしながら「私は看護師です」と名乗るようにしていた。そうすると、たいてい心に秘めていた健康上の不安を打ち明けてくれる。その人の体から心へと入っていける。
別の部屋では、脳性麻痺の女の子が、車椅子で寝かされていた。透き通った肌がまったく外に出ていない生活を思わせる。ご両親はどのようにしてこの少女を津波から守ったのだろう。薬は手に入っただろうか。埃っぽい環境の中で状態は悪化しないだろうか。この少女の今後を案じた。
この日、私は機嫌の悪そうな女性と話をした。彼女は若い時にこの町にお嫁に来て、1年4ヶ月前に夫婦で頑張って家を建てた。両親と一緒に住んで、親孝行をしようと思ったのだ。その家も流されてしまい、多くのものを失った彼女は、行政の対応の遅さに苛立ち、ひとしきり不満を並べた。
その時、また地震速報が鳴った。
一瞬、緊張で身構える。しばらくして横揺れ。ラジオは福島で震度6の地震を観測したと告げていた。強い余震が連発している。人々の不安に追い討ちをかける。
「今回の地震は、まだ本物ではないのよ。」「宮城沖地震はまだ来ていない。もっと大きな地震が来ると、みんな思っているのよ。」彼女は続けた。本当の地震がこれからもっと恐ろしい形で来るということを、この地の人々が覚悟していることに、私は非常に驚いた。それでもこの地に留まろうと決意しているのだ。
私は黙ってハンドマッサージを続けた。しばらくして、「どこから来たの?」彼女は尋ねた。「神奈川です。」そう答えると、「気をつけなさいよ。マスクをつけていなさい。二重にしていなきゃあだめよ。」「ボランティアに来てくれてありがとう。危ないから絶対海岸の方を歩かないようにね。用がない時には海岸を通らないように。」まるで自分の子供に言い聞かせるかのように、真剣に私を諭した。
「復興できたとしても、自分は生きているかしら」と彼女はつぶやいた。「まだそんなにお若いのに。」と返すと「私、55歳なんですよ。」と言う。明日は私の55回目の誕生日。私と同い年だ。「私たち同い年なんですね。あなたにお会いできて本当によかった。」私はお礼を言った。
「どうか、お体に気をつけて下さいね。」そういって彼女の両腕を握ると、私の目から不意に涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。被災して疲れきっている同い年のこの女性は、健康で何不自由ない私の体を案じて、心からいたわってくれる。まったく逆ではないか。彼女も泣いた。最初の固い表情とはうって変わった、穏やかで情愛に満ちた表情だった。この出会いを境に、私はすっかり涙もろくなってしまった。
おらあ、うなぎを開いていたんだ
4月13日(水)宮城県亘理郡亘理町 亘理小学校体育館
亘理町はさらに災害対策本部が確立していた。私達は受付でボランティア登録を済ませると、全員が本部のオリエンテーションを受けた。二次災害に遭わないように、不測の事態に備え、ボランティアの安否が把握できるようにとの配慮だ。たくさんのボランティアが次から次へと入り口に溢れる。若者もいるし、私の年齢の人もたくさんいる。外国人もいるし、若い女性もいる。駐車場ではボランティアが設営したテントが張られている。私達には教会堂や宣教師アパートがあるので、いかに恵まれていることかと思った。
私達は亘理小学校、中学校、高校の3つに分かれて活動した。私は亘理小学校だ。いつものように、運動場に設置された仮設トイレに入る。節水のために少量ずつポンプを踏んで水を流す。手を洗う水はなく、消毒液で洗浄する。私は個人用にも消毒液を持ち歩いていた。
体育館の中を手分けしてくまなく歩き、ハンドマッサージを勧める。たくさんの人と接しながら、私はだんだん言葉数が減っていく自分に気づいていた。手を通してのコミュニケーションで語り合えるので、多くの言葉は必要ない。被災された方が黙っている場面も増えてきた。心地よい自然な沈黙だ。
70歳くらいの男性が、背中を丸めて座っていた。この避難所では低い仕切りを使っていたので、どういう家族単位で避難されているのかがひと目で分かる。彼には家族がなく、ここでは一人のようだった。彼に何があったかは知らない。彼は傍目にも非常に穏やかな表情でじっと座っていた。「マッサージさせてもらっていいですか。」声をかけると、「はい、お願いします。」の丁寧な返答。オイルを温めて、腕全体にゆったりと広げる。マッサージを始めると、その人はしばらく私の手の動きを見ていた。
「おらあ・・」小さな声で何か話そうとしている彼に気づき、私は顔を近づけた。彼はなつかしむかのように言った。「おらあ、うなぎを開いていたんだ。」私はうんうんとうなづき、その手を優しくなでながら、「よく働いてきたんだね。この手でうなぎを開いていたんだね。本当にありがとう。」そう心の中で語りかけた。それは彼の生きがい、誇り、喜び、彼のすべてだったのだ。その仕事で家族を養ってきたのだ。胸がいっぱいになった。「神様、どうかこの方に私の思いが伝わりますように、慰めと平安がありますように、あなたの愛を感じられますように。」私は手に精一杯の祈りを込めた。
すると、ぐすっ・・鼻水をすする音が聞こえた。そっと目を上げると、彼の目に涙が溢れている。祈りを通して心が通い合い、私の思いが確実に伝わったと感じた瞬間だった。「おらあ、おらあ、うなぎに串を刺していたんだ。」私は慌てて下を向き、またうんうんとうなずきながら手をすべらした。私も涙をこらえていた。神様の愛がこの空間を満たしている。この人がもとの仕事につけるかどうかは分からない。私は、明日も明後日もまたここに来たいと思った。「どうかお体を大事にして下さいね」別れの言葉に、彼は丁寧に何度もおじぎをした。その後彼はまたもとのように、この上なく柔らかい表情で背中を丸めた。
娘は津波で流されました
この日私は始めて、身近な肉親を津波で亡くされた人の話を聞いた。その女性は75歳くらいだろう。マッサージを始めると彼女は突然、「私の娘は津波で流されました。」私の目を見て、しっかりとそう話し出した。うなぎ焼のおじさんと別れたばかりで、私はとても敏感になっていたこともあると思う。彼女があまりにも唐突に、淡々と私の目を見つめて語るものだから、私は思わずぽろぽろっと涙をこぼしてしまった。
かばんからタオルを取り出して涙を拭いていると、「こんなことを話してごめんなさいね。泣かせちゃったわね。」と彼女は言い、その娘がいかに親孝行であったかを話し始めた。私に話すというより、むしろ娘が自分にしてくれたことをひとつ残らず思い出して、それを自分に言い聞かせるような、そんな話しぶりだった。「口数の少ない子で、あまり遊びにも行かない子だった。」「でも、どんなに忙しくても、週に2回は必ず私のところに来てくれていたんです。」彼女は愛する娘の葬儀を済ませてきたばかりだった。
拭っても涙が溢れるものだから、私は途中で何度もマッサージをする手を止めざるを得なかった。周りの人は何事かと私をちらちら見ている。まるで反対だ。彼女は前と同じ言葉を繰り返した。娘がどこにも遊びに行かず、毎週欠かさず自分たちの所に来てくれたということを。私は繰り返される言葉を、涙しながら黙って聞き続けた。私は純粋に、混じり気なく真心から、悲しむ者と共に悲しんでいる自分に気づいた。同時に、私が悲しむことによって、この女性が慰めを感じていることにも気づいた。おそらくこの女性に寄り添うために、主が私に共に悲しむ心を授けてくださったのだ。
彼女はこれからも何度も思い返して悲しむだろう。しかし、やがて娘が遊びに行かなかったことが不憫でなかったことも、母親のもとに毎週通うことで娘に負担などかけていなかったことも、それどころか、それが娘の喜びであり、心からの望みであったことをはっきりと知る時がくるだろう。私は彼女がこのような娘を育てた自分に満足を覚える日が来ることを信じている。
復興した時にはもう死んでいるよ
70歳くらいの男性がいた。ステージでは体操のボランティが皆に体操の指導をしていて、彼は体育館の前の方で元気に参加していた。私の呼びかけに「やあ、こんにちは。じゃあ、よろしくお願いします。」彼はハンドマッサージを喜んで受け入れてくれた。
「おれ、世界一周旅行に行くのが夢だったんだよね。」「ローマ、ギリシャ、エーゲ海、運河を越えてエジプト、トルコ・・」彼は立ち上がって、大きな声で朗々と地名を挙げた。この人はなぜこんなに大きな声で皆に聞こえるように話すのだろう。場にそぐわぬ会話に、私はかえって彼が悪く見られないかと心配したほどだった。
「世界一周旅行ですか。いいですね。」と返すと、また地名を連呼する。「その旅には、どのくらいの日数とお金がかかるのですか。」と尋ねると、「エコノミーで500万だね。100日の旅として、1日5万かな。まあ、上を言えばきりがないけどね。」彼は本当に世界旅行を計画していたのだろう。世界一周プランをいくつか紹介してくれた。
しかし、饒舌な彼もマッサージが始まると目を閉じ、静かに私に身を任せた。彼はぽつりと言った。「おれ、津波見たんだ。」「そうだったんですか。見たんですか。」「ああ、すごかったよ。」沈黙が続いた。「ああ無理だな。復興した時には、おれは死んでいるよ。復興には10年や20年はかかるだろう。」確かにそうかもしれない。本来は快活なこの男性は、希望と絶望の狭間で自分をどう処していいのか苦闘しているようだった。「無理だ。すべてなくなってしまって、一からのスタートだから。」彼の中で繰り返す自問自答。私はじっと耳を傾けながら、心をこめてマッサージを続けた。疲れ切った体と心に少しでも安らぎがあるようにと願いながら。
私は元来おしゃべりな自分の口数がますます減っていくのを感じていた。私の思いも、願いも、メッセージも、愛情も、すべてこの2本の手で伝えることができる。それは口よりも正直で、雄弁で、深く染みこんでいく。黙って耳を傾けることの力を私は少しずつ学んでいた。
話しかけようと顔を上げると、彼のマスクの中に何本もの涙が流れ落ちるのが見えた。
追い詰められた親子
帰る時間が近づき、まわりを見回すと、体育館の後ろの方で二人の仲間がしゃがみ込んで話をしている姿が目に入った。その時間がとても長かったので、帰りを催促しようと少し顔を出してみた。
40歳くらいの母親と13歳の娘さんがいて、母親は娘の体のことで大変悩んでいる様子だった。娘はこれまでに喘息による10回の入院歴があり、学校でもいじめられていたらしい。新学期が近づき、学校が始まると、娘はまたいじめられるのではないかと不安で仕方ない、というのが彼女の悩みだった。大震災の影響で、娘は毎日のように過呼吸症候群にも苦しんでいた。余震のたび発作を起こしては病院にかけつけるらしい。それでも、赤ら顔のその少女は隠し立てなく何でも話す明るさがあり、甲斐田兄弟と桐沢姉妹にすっかりなついて甘えていた。
私は初めから母親の視線がとても気になっていた。彼女はずっと私の方を凝視し、目をそらさない。娘のことを相談しているが、その視線が病的な感じなのだ。私は彼女のそばに近づき「お母さんの体こそ、大丈夫なんですか。私はお母さんの方が心配です。」と率直に話した。「実は・・」彼女は話し始めた。「私は大変な病気を持っていまして・・膠原病で治らない病気なんです。」彼女は、娘のことを過度に思い悩む自分の方こそ助けが必要な状態にあることに気づいていなかった。ここにきて彼女は、自分自身のことについて堰を切ったように話し出した。「ご自分も病気なのに、それは大変でしたね。ところでご主人は?」と尋ねると、
「お父さんは腎臓が悪くて、透析に行っているよ。糖尿病もあって、この前も危なかったんだよね。」と娘が即答した。あり得ない!と思った。家族全員リスクが高く、病院でいるべき人がこの寒くて窮屈な避難所にいることに、私は違和感と憤りに似たものを覚えた。避難所の生活は、彼らにとってあまりにも過酷で危険だ。
私はせめて母親の心を少しでも楽にしてあげたかった。「お母さん、娘さんが甘えてきた時に抱いてあげるので十分なんですよ。」娘のことが心配で、いつも守り、かばい、抱きしめ、囲ってきた母親は、自分の体をいたわることがなかった。そのことが様々な悪循環を生んできた現実。「甘えてきた時に抱きしめてあげるだけで、それだけでいいんですね。」「ずっと抱いていなくてもいいんですよね。」母親は何度も私に尋ねた。「どうか、ご自分の体も大事にしてくださいね。娘さんはお母さん思いのすばらしいお嬢さんですよね。娘さんはお母さんが思っているよりしっかりされていると思います。お母さんも知ってらっしゃいますよね。」母親の表情は緩み、うんうんとうなずいた。娘は私たちに、実は母親が過剰に心配するのが窮屈で嫌だった、何もできなかったということを打ち明けた。
この女性には専門家による心のケアが必要で、おそらく震災前から心の病があるのだと思う。震災が傷口をさらに大きくし、生活をより困難なものにしている。苦しいことはこれからもあるだろうけれど、母親には代ってやれない、子供が自分で乗り越えていかなければならない厳しい現実がある。
最後に、私は母親を固く抱きしめた。母親は私にしがみついて泣いた。これまで甘えることなどなかった彼女が、今度は娘のように私に抱かれた。甲斐田兄弟と桐沢姉妹は娘をしっかりと抱きしめてくれていた。
この家族に適切なケアが行なわれるようにと心から願った。同時に、私達の無力さを思い知らされた。
被災された案内人
4月14日(木)宮城県牡鹿郡女川町 女川第1小学校、勤労青少年センター・・ 傾聴ボランティア、老眼鏡を届ける

この日、私達は全員女川へ向かった。これまで何度か通った石巻を通り過ぎると、津波が嘗め尽くしたがれきがさらに延々と続いた。がれきの向こうには、静けさを取り戻した海がひたひたとそこまで来ている。今地震が起きれば、この海はまた押し寄せてくるのではないか。私は猜疑心を持って海を見ていた。
車に同乗していた仲間たちは、この事実を残しておこう、友人に伝えようと、しきりにシャッターを押している。私は今回の旅にカメラは持参しなかった。今もその気になれなかった。本当なら美しい海岸線を楽しんでいたはずの行程も、ここまでできるかと思われるほど完璧な破壊の爪あと。鮮やかな緑や青に恵まれたこの地は一面平坦な灰色と化し、よそから来た私でもその事実を受入れがたい。
女川に着くと、60歳くらいの現地の女性が案内役をしてくれた。ご自分も被災されたにも関わらず、ボランティアの募集に進んで応募し、案内役を買って出たという。がれきの中に緊急に作られた道をぬっていくと、彼女は「あそこが流された私の家があったところです。」と左側を指差した。その先を見つめると、四方八方どこまでもがれきの山。その女性の言葉に、私達はなんと答えていいのか窮してしまった。自分の不幸をそのように案内できる人がいるだろうか。女性は淡々と普通の表情で、時に笑顔を交えながら案内を続けた。
すべてががれきとなった今も、彼女はそれぞれを「ここは〇〇です。」と説明した。私たちにはがれきとしか映らない光景も、彼女にとっては、つい先日までそこに存在した美しい自然や町並みを重ねて案内しているのだ。私はがれきを単なる撤去する不要物としてではなく、尊厳をもって扱わなければならないことを感じた。

横倒しになって鉄骨がむき出しになった建物には、がれきが幾重にもぶら下がり、遠目にはそれが引っ掛けられた藁、押し込まれたような弱々しい紐のようにも見える。その上には転がることもできずに置き去りになった船や車。アララテの山頂に置かれたノアの箱舟を思い出した。
高台には女川町立病院があった。標高15mの高台にも津波は押し寄せてきた。波は17mくらいの高さまで来たとその女性は語った。想像もつかない威力、破壊力が、何度も行きつ戻りつ、この町を破壊し尽くした。「ここからが一番よく津波の被害が一望できます。」彼女はまるで観光名所を案内するかのように、こともなげに言った。自分に遠慮などせずに、この悲劇を直視するようにと私たちを促したのだ。
車はさらに海岸線を走った。「向こうに見えるのが女川原発です。ここから約20kmです。原発事故が起きたら、ここはもうだめですね。事故がないのを祈るだけです。」この地域の人達は津波による壊滅的な被害を受けた上、原発事故への不安も抱えているのだ。

しばらく車を走らせていくと、眼下に海が広がった。彼女は目を細めて語った。
「いつもはとってもきれいな、とても穏やかな海なんですよ。でも一度牙を剥いたら、どうしようもなく恐ろしい。今はこんなに静かですけどね。」この地の人は海を怒ってはいなかった。やんちゃな息子を見るような目で海を見て、「どうしようもないものね。」と言う。海は何も悪くない。海は絶対で、人々はこれまで自分たちを海に寄り添わせて生きてきたのだ。多くを奪った海は、同時に、これまで彼らを豊かに養い、育て、守ってきた。その奥深い絆は私たちには分かり得ない。被災された人に「一番食べたいものは?」と誰かが尋ねると、「やっぱりここでとれた刺身だね、最高にうまいんだよ。」そう返ってきた。
喜ばれた老眼鏡
教会は1000個の老眼鏡を用意し、それをプレゼントすることに決めた。私たちはこれまで何日間か注文を聞き歩いて届けてきたが、今日は避難所で受付の場所を設け、希望する方に直接お渡しすることになっていた。
小学校でいつものようにハンドマッサージをしていると、「老眼鏡が必要な人は玄関に来てください」の案内に、あっという間に教室ががらんと寂しくなった。やがて彼らはざわざわと帰ってくると、真っ先に新聞に向かった。「見えた、見えた。」の声が上がる。「眼鏡のアイザワですって。一流のところよ。うれしいわあ。」と大好評だ。感謝の言葉が飛び交う。私も嬉しくなった。これほど老眼鏡は必要とされていたのだ。教会がこんなにタイムリーにすばらしいプレゼントを思いついたことに嬉しくなった。

津波が押し流したのは、眼鏡だけではなかった。
小さく丸まって横になっていた75歳くらいの男性に「楽になりますので、手のマッサージをしましょうか。」と私は声をかけた。「じゃあ、腰をやってもらおうかな。」その男性はふらふらと立ち上がり、うつぶせになって体を伸ばした。腰のマッサージを始めると、彼は先ほどトイレで転んで、あちこちが痛いんだと打ち明けた。震災後、何度も何度も転んでいると言う。心配する私に「平気だよ。どうってことないよ。」と言うが、今回はトイレでの転倒。水がはねないように敷かれたダンボールの段差でつまずいたらしかった。高齢者の視点に立った危険の予測が不十分で、加えて、高齢者が我慢強くて慎ましいものだから、彼らの声も上がっていかないのだ。
「杖は使っていないんですか。」そう尋ねると、「流されてしまったから、壁伝いに歩いている。棒っ切れでもいいから杖がほしい。」と乗り出してきた。「すぐ確認します。待っていてください。」私は避難所の本部に駆けつけた。ありがたいことに、昨日届いた支援物資の中に杖が1本入っていたということで、私はすぐにその人のもとに戻った。「一緒に歩いてみましょう。」杖の長さを確認し、少しの距離を歩くと、彼は顔をほころばせた。「助かったよ。ありがとう。これで、後ろ歩きもできるかな?」先ほどまで黙ってうずくまっていた人が、冗談を言い出した。杖を送ってくれた誰かの気の利いたプレゼントが本当にありがたかった。
ようやく渡せたしゃぼん玉
避難所まわりを終え、私たちは帰路に着くことになった。仮設トイレの後ろには仮設住宅の建設が進められている。よく見ると、建っている地面が大きく割れている。かなりの戸数の建設が急務であり、他に建設する適切な場所も見つからないのだ。津波に襲われる心配のない高台は限られており、相次ぐ余震でできた地割れは工事を遅らせているようだった。
最後の働きを終えて車に乗り込む前に、私は案内役をしてくれた女性に感謝とお詫びの気持ちを伝えたいと思っていた。車中での時間、私たちは被災者として彼女を気遣ったとは思えなかった。写真を撮ったり、軽率な会話の中には、きっと彼女の心を傷つけたこともあったと思う。それでも彼女は一度も感情を取り乱すことなく、静かに、丁寧に、案内をしてくれた。
私は彼女に駆け寄った。「ありがとうございました。嫌な思いもさせたりして、申し訳ありませんでした。」
「どうかお体を大切にしてくださいね。本当はあなたにもマッサージさせていただきたかった。」両手を握りしめ、肩を抱いた。彼女は顔を覆って泣き始めた。仲間たちが次から次へとやってきて、彼女を抱きしめた。
すぐ近くに、一人のおばあさんと孫がいた。もうこれで最後なのだ。私は車に戻り、1週間持ち歩き続けたシャボン玉を持って来て、女の子に手渡した。「やったあ。」その子は両手をあげて喜んだ。私たちは傾聴ボランティアとして参加した。本部としてはハンドマッサージのみを通して傾聴し、個人的に何かを差し上げることは控える方針だった。私は娘から預かった10冊ほどの絵本を甲斐田兄弟に渡すと、彼は子供たちに読み聞かせ、そこに置いてきてくれた。他の姉妹から預かった色紙も渡してもらった。「いいんじゃない。すごく喜んでいたよ。」の彼の言葉に私の心も晴れた。
贖いの力
今回ボランティアに応募する時に、まず読んでくださいという項目に「健康であること」が挙げられていた。私はこの一文を見て、過酷な状況に向き合うことを予感した。迷惑をかけないように、私は絶対健康でなければならないと覚悟した。
生活は幾分過酷だった。既往歴もあり、50歳を超えた私には、レトルト米と缶詰、カップめんという食生活が続くことは、何か病気を引き起こしそうで怖かった。車中での移動時間が長く、仮設トイレもあまりないために、私は水分の摂取も控えていた。さらに、睡眠不足が続いた。ボランティアは多くの人が入れ替わって参加した。若くて繊細な心を持つ人の中には、心に傷を負う人もいた。この1週間で震度6の地震が3回も東北地方を襲い、ボランティアの最中や反省会、眠っている時にも、余震は頻繁に起こった。このような状況の中で人々は疲れ、様々なことに適応できなかったり、我慢できる閾値も下がってきたりする。運営上の不満も見え隠れした。やりたいことと求められることの狭間で葛藤する場面もしばしばあった。人間関係に苦しむ場面も見られた。
私は毎晩、皆で聖典を読み、互いに心の思いを話し合うようにした。反省会が終わった後もアパートで経験を分かち合った。ある晩、一人の姉妹が夢でうなされた。切なく、苦しそうな泣き声が長く続くと、私は心配で眠られなくなった。次の日、私はそのことについて話を切り出した。すると、一人の姉妹が「それは多分私です。」と言った。彼女は最初に体験した震度6の余震がとても怖かったけれど、実はそれをぐっと抑えていたことを話し出した。それが意識的なのか無意識的なのかは、彼女は分からないと言った。当然、地震の前から、あるいは仙台に来る前から抱えてきたものもある。いずれにせよ、心の傷が深くならないようにとの配慮は常に必要だ。とにかく非日常的な経験の中で私たちが受ける精神的なダメージは、確かにかなりのものがある。健康だと思われる人が、ある経験がひきがねとなって心を病むことは普通にあることなのだ。
このような悩みや問題から人々を解放し、慰めと安らぎを与えてくれたのは、やはり主の言葉だった。イエス・キリストは本当に私たちを悲しみや苦しみの淵から贖って下さるお方であり、その言葉に力があり、命があることを、皆が確かに知った1週間でもあった。私達は主の言葉に力づけられ、毎日出かけて行った。
絶望的な状況に置かれても、人々は徳高く踏みとどまり、必ず立ち上がろうと希望を抱き、心の奥ではそれができると信じている。私たちの心は被災者に向かい、彼らの重荷を少しでも軽くしたいという思いが日本列島を包んでいる。私は主がまさに被災された人々を支え、この地を、そして日本人の心をも復興させようとしておられるのを知った。
また会いにきます
23時59分発のバスに乗るために、甲斐田兄弟と二人の姉妹が私を仙台駅まで送ってくれた。重いスーツケースの中には、使わなかった紙芝居などがほとんどそのままあった。
とにかく元気に過ごすことができて良かったという安堵感が胸いっぱいに広がった。神奈川に帰ったら山のような用事が待っている。私はバスに乗り込むと、体を少し斜めに倒し、目を閉じた。
バスが発車する音が聞こえた。来た時とは反対に、そっと静かに仙台駅を離れていく。
その途端、急に込み上げてくるものがあり、閉じた目から涙が次から次へと溢れ出した。「おらあ、うなぎ開いていたんだ。」「おらあ、串に刺していたんだ。」あの穏やかな男性の顔が浮かんできた。「マスクを二重にしなさいよ。海岸に近づいてはだめよ。」と私の体を案じてくれた女性、私に抱きついて泣いた女性、世界一周の夢について語ってくれた男性・・次から次へといとおしい人たちの顔が浮かんできた。
こらえきれなくなり、私はタオルを出して泣いた。触れ合った人たち、被災されたすべての人たち、そして東北の人たち、壊滅的な被害を受けたこの土地をこれほど愛するようになった自分に、今になって私はようやく気づいたのだ。私はかつて故郷を離れた時に味わったあの切ない、胸を締め付けられるような思いをまた味わっていた。
私はこの大震災、この地に住む人達を決して忘れない、置き去りにはしないと心に誓い、「また会いにきます。」と仙台に別れを告げた。次に訪れる時には、真っ先にあの湊中学校へ向かいたい。災害対策本部が設置されたことでこの恵まれた機会を得たことに心より感謝すると共に、うまくは伝えられないだろうけれども、皆の心が被災された人々に少しでも長く向かうよう、私も何かできればと思っている。
<完>
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